※「閉じた国」と少し繋がってますがこれだけでも大丈夫だと思います





夜明けだか、暮れかかるのだかもわからない薄暗い荒れ野を、罪人のように頭を垂れて粛々と歩いている。
地面を踏みしめるたび、足先から耐え難いほどの苦痛が体中に走る。体がばらばらになるような痛みだ。 一歩踏み出すたび、そのまま前のめりに崩れ落ちそうになるのを、もう一歩を踏み出すことでかろうじて支える。それの繰り返しで歩いている。緩慢に転がっていくような歩みの先には自分の父親が歩いている。
父とも思えない、向こうもこちらを息子なんて思っていない、それでもかつては期待して、どこかで慕っていたこともあった、そういう気もする。記憶は体中に満ちる痛みと疲労に遠くかすんで、何ひとつまともに思い出せない。そもそも今自分がどこへ向かっているのかもわからない。父はなにも言わない。むしぐら、という言葉が頭に浮かんで、すぐに打ち消した。そんなもの知らなかった。

たしか。

たしかおれは、生贄にされる少女の身代わりとなるべくこんな寒々しい土地を歩いているのだ。そのはずだ。漠然とした神だか王だか、とにかく絶対的な力の象徴に捧げられる憐れな犠牲者、無関係の、罪もない少女は、どうしてそんな目に遭うに至ったか、またどうして自分が身代わりになろうと、恐らくその資格もないようなのに名乗りをあげたか、ひとつも思い出せない。なにかの物語、寓話のようなストーリーでしか思い描けない。
きちんと、思い出そうとすると、ただでさえ靄がかったような頭が真っ白になって脚がもつれてしまう。思い出そうとすると歩けなくなる。だから、思い出さない。何も考えない。ただ体を倒さないよう脚を前へ前へとひたすら交互に出していくことだけに集中しなければならない。

「登れ」

不意に、父が歩みを止めた。
目の前には枯れかけた樹が一本きり、荒野のなかに急に立っている。父は杖を振り上げ、痩せた枝を差している。おれは言われた通り樹によじ登り、枝に背を預けた。とたんに苦痛が遠のき、眠気が訪れる。父はつまらなそうな顔をしてこちらを見上げている。

「これでお前の望み通り、そこにいれば何も考えずとも、見ずともよい。そのまま永劫動かず、そこにいればよい」

そう言われてようやく、おれは自ら望んでこの荒野を歩いていたことに気が付いた。なにも考えずただ歩き続ける苦行のなか、そういえばおれの心は安らかだった。自分はきっと、自分以外誰一人いないこの死んだ場所でようやっと、魂の安息を得ることができるんだろう。

「ああ……ありがとう、お父さん」

おれは初めて父であった人に感謝して、痩せ細った枝に頭をもたせかけて静かに瞼を閉じた。







おそらく多分、長い時間が流れていった。おれは眠り続けていた。
荒野に時おり風が吹き、そのときだけ意識が浮上して、樹の上に体を預ける自分にもどってくる。薄目をあけて眺める光景にはなにひとつ変化はない。風が通り過ぎたあとは、ただただしんと静かな薄暗い荒れ野、そこに立つこの一本の痩せ樹。おれはその枝から自分の醜く爛れた真っ白い腕をだらりと垂らし、最後にと着せてもらった死装束めいた和服を乱れもさせず、いつの間にか大量に湧き出した蟲を払いもせずにまとわりつかせたまま、おれ自身死んだ植物のように、いっさい動かずただそこにいる。
そうやって長い長い眠りのなかに沈むおれの樹の下に、ある日、人が訪れた。
知らない若い男が、オニーサンオニーサン、としきりに呼びかけるので、目が覚めた。

「……だれ」
「あ、生きてんだ。へーええ。俺は雨生龍之介。オニーサンはそこで何してるの? この樹、ムシだらけだよ」

言われてのろのろと、自分の横たわる樹の見下ろしてみる。おれの腕から胸から、蟲はおびただしく這い回り、煤けた樹の肌一面にも蟲が張り付き、蠢いている。樹全体が脈打っているようだった。すこしだけ眉をひそめて、けれど今更改めて眺めるほどのことでもない、と億劫になって、またもとのように目を閉じかけた。

「いいんだ別に。この蟲はみんなおれの蟲だから」
「そうなの? ああほんと、確かに刺したりはしてないんだね、面白いね。でもその顔は? 髪は? それはもともと?」
「……うるさいな。寝かせてくれよ。なんなんだ君、うりゅ……なんだっけ? そもそもどっから来たんだよ」
「古いお話の中。かなり昔の記録だけどさ、あんたのいるこの本にはさすがに負けるかな」
「本?」
「知らねぇの?」

自分のいる場所なのに、と言って男はけらけら笑った。
樹の根元に腰を下ろして、くつろいだ様子でおれを見上げる。

「ここは大昔の、どこか知らない国の知らない言葉で書かれた本の中だよ。司書の記録からも抜け落ちて装丁も煤けるばかりの、もう百年誰からも読まれず、開かれすらしない本。あんまり古すぎて、景色の色もこんなに褪せてしまってる。あんたの色も大概薄いけどね。勝手に書き足されたにしては、この樹、まるではじめからここに生えていたみたい」

おれは重たい瞼を開いて荒涼とした大地に視線を向ける。なるほど確かに、手で払えば途端にすべて埃として消え去りそうな茫洋とした景色だ。そこに書き足されたというこの樹も、負けず劣らず精彩を欠いて、薄い影のようにひっそりと佇んでいる。唯一動いているのは蟲だけだったけれど、それさえおれの寝息や、この限りなく緩慢に死に向かう樹の樹液の巡りと同じ程度でしかない。静かに樹の表面に貼りついて、全体で一つの生き物のように密やかに息づいている。

「ね、俺この樹知ってるよ。桜でしょ? 花は咲かないの?」
「さくら……ああ、そうだったのか。へぇ……」

へえって、と男は苦笑する。自分でもひどいものだと思うけれど、さっきからずっと夢から醒めたばかりのようで頭が何も働かないし、考えようとすると蟲たちがざわつく気配がして体が痛むので、考えないようにしている。しているけれど、閉じ込めて鍵をかけたはずの古い記憶は、男の言葉で隙間から這い出るように流れ始めてしまう。さくら。桜。おれが身代わりになってやろうとした、小さくて、無力な、あんまり可哀想な女の子。おれが助けると、おれこそがあの子を救うのだと、そう息巻いて見苦しく這いずり回っていた昔の記憶。

「……花は、咲かない。桜はね、おれが昔、体のいい口実に利用してた女の子の名前だよ」

ふーん? と男はあまり興味なさげに言って、立ち上がった。
オニーサン俺、そろそろ帰るね。けっこう長居しちゃったから、あのひと心配してるかも。
そう言って楽しげに笑う男におれは黙って目を閉じる。ああ早く、とっとと帰ってくれ。君のせいで余計なことばかり思い出してしまった。おれは静かに息をつき、再び蟲と同化するように、ただ呼吸をするだけの生き物に戻ろうとする。遠ざかっていく足音を聞くともなしに聞いていたら、男が不意にあ、と声をあげ、あれそういや……と離れた場所からこちらを振り返る気配がした。

「あんたもしかして、まとう、」

と、そんなことを言いかけた気がするけれど、おれは構わず強く目を閉じ、植物の眠りに還っていった。







カリヤ、と呼ぶ声がした。
肌にあたる雨音か、風の通り過ぎていく音か何かのように、植物の見る夢の中から、不思議に耳に残るその音をずっと聞いていた。 音を響かせる機能を放棄しかけていた鼓膜にその声が馴染んで、頭に満ちていくころ、ようやくおれはうっすらと目を開いた。 カリヤ、と繰り返されるそれがおれの名前だと気付くまでには、またしばらくかかった。
何度か緩慢に瞬きをして、声のするほうへ頭をゆっくりと巡らす。わずかに視線を下げるだけで目の合う距離に、背の高い男が背筋を伸ばしておれを見上げていた。

「カリヤ、聞こえますか」
「……だれ」
「バーサーカーです。ご自身のサーヴァントをお忘れですか?」
「ばー……? ああ……ああ。おまえか。おまえ、そんな顔してたんだな」
「思い出していただけて何よりです、カリヤ」

さあ、そんなところで何をしておいでで、とおれのかつてのサーヴァントは言う。丁寧な口調に、胸のあたりを這う蟲がじくじくと鳴いた。こんなきれいな顔をして、紳士然として話す男をおれは無理矢理狂わせて、言葉さえ奪って、あんな化け物か獣みたいな絶叫をあげさせるばかりだった。そいつがこんな場所にまでおれを追ってきて、何をしたいのか、おれの半分眠ったような頭でもそれくらいは予想がついた。

「バーサーカー、おまえがおれを切り裂くんだな」

閉じそうになる瞼を最低限、相手が視界に入る程度だけ開いてそう言うと、男は切れ長の目を少しだけ見開いて「何故」と問うた。

「さっき、いや、もう、ずっと前なのかな。よくわからないけど、男が来て少し話をしたんだ。それからまた眠りながら、昔のことを、夢に見るみたいに思い出してた。眠りながらずっと自分の罪を数えてた。おまえもそのひとつだ、バーサーカー。おまえはおれを、恨んでいるだろ?」
「ですから何故、そう思うのです」
「だって、おれが弱くて未熟で半端者なばかりに、おまえに狂化の呪いをかけた。おまえは強かった……おれなんかがマスターでなければ、おまえはきっと勝っていた」

そこまで言って、おれは息をついた。 こんなに長く話すことはとても久しぶりで、喉が痛んで息が切れる。へとへとで、すぐにでも瞼をおろして眠ってしまいたかったけれど、これが最期とわずかな気力を奮い立たせて口を開く。

「こんな腐りかけの、死んだような樹ひとつ裂いて、今更おまえの気が晴れるかわからない。だけどおまえに償おうにも、おれに差し出せるのはもうこの魂ひとつきりなんだ。ごめんな、バーサーカー。いや、ランスロット。英雄のおまえの名を汚して、ほんとうにすまなかった。許さないでいい。おれが言えた義理ではないけれど、どうか次こそ、おまえの高潔な魂をなにものにも歪まされないように」

あとなにか、あったろうかと頭を巡らしてみる。そうして、もうなにもない、からっぽだと安心して、喉元をさらして目を閉じた。 すぐにでも振り下ろされるだろう刃のひとふりを待っていると、枝からだらりと下げたままの腕を、ふととられた。

「そんなふうに謝って、勝手に自己満足して殺せと命じるのですか?」
「え?」

もう開くつもりのなかった瞼を開き、言葉とは裏腹な優しい手つきでおれの指先と手首をとる男に、視線を落とした。 感情の読み取れない、ただ美しい顔をしたかつての騎士はかすかに顎の先を持ち上げておれをひたと見つめている。

「ずっと探していたんですよ、カリヤ。好き勝手に空想して私から逃げないで」
「逃げ、ちがう、そうじゃない。だっておれにはもうそれしか出来ない……」
「あなたの消滅なんて別に、望んじゃいませんよ」

聞き分けのない子どもに言って聞かせるような物言いにおれは目を瞠った。呆れたような物言いは伝説の騎士らしくもなく、ただ少しだけ困った顔で、恨んできたわけじゃ、ありません、と言った。

「契約が解除され消えゆく寸前、あなたを思い出した。私を狂わせて、そしてその狂乱のために悶え苦しんでいただろうマスターを、正気に返ったその一瞬だけ、ようやく気にかけたんです。あなたを探しに行きたいと、少しだけ思いました。全部終わりにしたいと。悲劇の芽のすべてを摘みとりたい。仮初の主従関係ではあったけれど、叶うなら今度こそ、仕える相手に真に誠実でありたい。……最期の、最後の瞬間です。今更です。気休めに祈るのなら、あなたが私のように、死後も狂気に救いを求めたりせぬように。できるだけ安らかな終末と、次への希望を抱えた眠りが訪れますように。ただそれだけでした。ただそう、思っただけなんです。
けれど叶いました。気付けば私はあなたを探す旅人として存在していました。空を地を海を、風となり雨となり、微かに覚えているあなたの声を探って、世界を駆けていました。人であった頃どれだけ祈っても終ぞ見向きもしなかった神か、精霊か、なにかそういった力を持つなにかが、何故か、あんな不確かで曖昧な仮初の命の終わりに、一瞬過ぎっただけの祈りを叶えた。気まぐれとしか思えませんが、こうなった以上あなたを見つけるまで私もまた終われない。ですから必死で探しました。なかなか骨が折れましたよ。夢を見たまま死んだあなたの魂を、さらにあなたのお父上が隠した。転生もさせないで、あなたの魂そのままで、こんな寂しい場所に眠ったままで……死後まで続く見せしめか嫌がらせか、面白がっているのか、それとも憐れんだか、理由は知りませんが。それでも、さっきあなたの言っていた、ここに来たという男。私は知りませんが、彼と会話してくれたおかげで、ようやくあなたの声を辿ってここへ来ることができたんです」

そこまで言って、男は静かに目を伏せた。おれは始終、その淀みなく動く口元をなんだかぼうっと眺めながら、久しぶりに耳に流れ込む大量の人の言葉に理解が追いつかず、しばらく言葉もなく呆然としていた。男もわかっているのか、口をやわらかに閉じておれが反応するのを大人しく待っている。ようやく男の言葉を頭が噛み砕く頃に、おれは掠れた声で尋ねた。

「……それで結局、こんなところまで来て、おまえはおれにどうしてほしいんだ」
「そこから降りてきて下さい」

しっかりと顔をあげきっぱりそう言って、男は恭しく触れていた指にわずか、力を込めた。 おれは絶句して男を見下ろすことしか出来ない。蟲がざわつき始める。男はそれには目もくれず、おれとしっかり目を合わせたまま少し厳しい口調で言葉を続ける。

「カリヤ、こんな場所もう出て行きましょう。全部終わったんです。いい加減、次の生に進まねば」
「駄目だ」

強く断じたおれに男が目を僅かに見開いて口をつぐむ。自分でも驚くような大声に情けなく咳き込んで、それから動転してまわらない舌を必死で動かしてだめだ、と繰り返した。

「何故です」
「なぜって、だって駄目だ。なに言ってるんだよ、だめだ、そんなのぜったい……」
「ですから何故です、カリヤ。こんな中途半端で暗い場所、」
「そうだけど、でも、おれはここから動いたら駄目だ。無理だよ。だめだ」
「どうして」
「な、だ、だって。だっ、て」
「ここが好きなんですか?」
「ちが、そうじゃなくて……なんでだよ、だって、だって体を動かすと、空気も動くじゃないか、そうすると病気が流行るんだ。知らないのか? おれはだから、じっとしてないと駄目なんだ。おれはやることなすこと全部裏目に出る。おれが余計なこと……おれが動くと、おれのせいで、みんなが不幸に……病気……おれが……」


自分でも、もう何を言っているのかわからなかった。ただ頭が真っ白になるくらい焦って、怯えている。声が震える。感情が動くと体が痛くなるのを今更のように思い出した。男が平気で口にする、おれには欠片もなかった発想がとても恐ろしかった。出て行く? おれにまた、あそこに戻れと? ……いや違う、あれはもう終わった。だけど、あの陰鬱な実家、蟲蔵でなくとも、おれのような吐き気のする程の馬鹿がまた人に交じって生きて行くなんておれ自身が許せない。なにより、怖い。

「もう嫌だ。苦しくて辛いことばかりだった。おれは、それをもっと悪くさせることしか出来ない。おれは行けない」

ぐっと強く目をつぶって、とられたままの片腕以外、身体ぜんぶを枝の上で縮こまらせる。
手を離せ、お前ひとりで行ってくれ、と言ったら、いいえ、と返された。

「いいえ……いいえ。カリヤ」

その声に、おれは思わず顔を上げてしまう。声に色がついている。
男は笑っていた。

「嬉しいです。あなたは本当に、思ったとおりの人だったのですね。ずるくて弱くて、そしてとても」

やさしい、と結んで、男は今までの無表情からは想像もつかないような満面の笑みを浮かべておれを見上げている。
よかった、私の思い込みではなかった、会えてよかった、探してきた甲斐があったと、男は感極まったように一人感情を溢れさせている。男の変化に驚くあまり、おれはこらえていた涙がこぼれるのを彼の前で晒してしまった。慌てて片手で隠そうとするおれに構いもせず、男が掴んだままのおれの手をぎゅっと力強く握り締めた。


「カリヤ、あなたがここでまどろみながらご自身の罪を数えていたように、私も長い旅をしながら、ぼんやりと、あの頃は目もくれなかったあなたの記憶をひとつひとつ、思い返していたんです。理性の飛んだ私の切れ切れの記憶の中、あなたはいつも苦しんでいた。蟲に体中侵され抜いて、地を這いずり、血反吐と蟲を吐きながら、すべてを恋敵のせいにして、……それで結局は。私を召還までしておいてあの様、一体なにがしたかったんだと呆れて笑い飛ばそうとした先から涙が出た。口だけで笑いながら、嗚咽がこぼれて仕方なかった。あまりに可哀想だと思いました。哀れで愚かでみじめで、とても、愛おしいと思いました」

「だって、カリヤ、あれがあなたの最善と信じた道だったんですよね。未練を捨て切れず、隠した自分の欲にも気付かず、自分こそがと思い込んで、結局はそれら全て否定されたけれど、だけど、あなたの最初の目的だって嘘じゃない。それだけじゃなかったかもしれないけど、だからって全部が全部口実でもないのを私は知っています。ちゃんと思い出してみれば、壊死した顔半分をぎこちなく隠して、死ぬような努力でまともに見えるよう笑顔をつくって、あの子どもに優しく話しかけるあなたがいた。動かない手脚を引きずって、気の遠くなるような時間をかけてあの暗い屋敷に、ただあの子に、桜に一言おやすみを言うためだけに帰宅するあなたがいた。狂う目の中でも、私はそういうあなたを見ていましたよ。あなた最後まで、彼女のこと、救おうとしていたじゃありませんか。他の誰もが、あなた自身さえそれを欺瞞だったと唾棄し、嘲笑おうと、カリヤ、私はあなたを肯定します。あなたは本当にただの人間だった。苦痛の酷いあまり妄想に逃げてしまいがちの、少し心の弱い、でもそんなの当たり前の、普通の人間のあなたが、あんな戦争を最後までよく戦ったと、よく頑張ったと言ってやりたい」

みじめな泣き顔を隠すことも忘れて、おれは男の顔に見入っていた。
昔、微笑みを向けられることも、優しく名前を呼ばれることもおれには数えるほどで、そのひとつひとつをずっと覚えているくらい貴重なことだった。だからあのひとのことも、優しくされてすぐに好きになってしまった。だけどそんな彼女の笑顔も穏やかだったはずの呼び声も、今では最後に見た鬼女の形相と罵声と一緒になって蘇る。それがこんな場所でもずっとおれの頭から離れないから、考えないようにひたすら眠り続けて、からっぽの夢の中に逃げてきたのに、揺り起こされた今目の前にあるのはあの頃欲しくて、向けられたくてたまらなかった親愛そのものだった。おれの手を掴む男の手が温かい。笑いかける男の眦が甘くゆるんで、すべてを許されている気になる。 あ、と声をあげかけて、涙で喉がつまった。みっともなくしゃくりあげながら、おれは初めて男の手を小さく握り返した。

「あ、あり、がと、バーサーカー……ランス、ロット」

男は黙って、手をとったままおれを見上げている。 どんな顔をしているか、涙でぐしゃぐしゃになるおれにはもう見えない。

「おれ、たぶんずっと、だれかに認めてほしかった。ほ、ほめられたいなんて思ってないんだ。おれのやったこと、無意味だったけど、知っててほしかった。だれにも馬鹿にされるけど、それでいいけど、知られないまま消えてしまうのは、そんなのは、あんまり、さみしい……」
「私は。私は知ってる。知ってます、カリヤ、私は知っています」
「うん……ありがと、なぁ」
「カリヤ、私は本当に……あなたほど普通の人間に、誰より人間らしくあろうと必死だったあなたのような人に、一時でも仕えることが出来たのは今にして思えば本当に僥倖なことでした。あの頃は、それがわからなかった。ですから今度こそ守らせて下さい。あなたを、今度はちゃんと助けたい。だから降りてきて。もうそんなところにいなくていいんです。ちゃんとこの手で、受け止めますから」

さあ、ともう一方の腕も差し出されて、おれは怖気づいてそれを見下ろす。
樹と肌を這う蟲がざわざわ騒がしく蠢いている。

「……やっぱりだめだ、おれの体はもう蟲なしじゃかたちを保てない。ここから降りたら、ばらばらになってしまう」
「そんなこと。ならば蟲一匹、その破片一つ落とさず全て抱えるだけのことです。全部ちゃんと受け止めますよ」

それに姿が変わるのは当然のことですよ、と男は笑うけれど、おれはまだ怖くて、体を固く縮こまらせている。

「でも、おれが、おれみたいなのは」
「こんな寂しい場所に、一人ぼっちでまだいるつもりですか? もう自虐の時間は終わりにしましょう。外では、世界が変わらずきちんと機能していますよ。あなたの古い友人、なじみの汚辱も健在ですが、海は青いし太陽は眩しい。花咲く春なら風は甘く香ります」
「それを、そういうのをおれはまた駄目にするかもしれないんだ。無理だよ、そんなのはやっぱり、怖い」
「カリヤ、生きることそのものがあなたには戦いだと言うのですね。ならば私はその手を引いて、あなたに降りかかる戦火の火の粉を払うだけ。あなただけの騎士として、どこまでも、いついつまでも、傍に控えてあなたと供に参りましょう」

そう言って男はおれの生白い手を小さく掲げ、恭しい仕草でその額に軽く押し付けた。そうしてそのまま、感覚のないだらりとしたままのおれの指の隙間からこっちを見て微笑みかける。カリヤ、なんなら痩せたあなたのために卵を焼いて、パンを温めてやってもいいでしょう。湯気のたつ柔らかい生地にジャムとバターをたっぷりのせて……騎士然とした仕草で、そんなこと言い募っておれを誘う男がおかしくて、強張っていた体から力が抜けていった。つられておさまりかけていた涙腺もまたゆるんで、ぱたぱたと涙がこぼれていく。男が笑いながら、「そう泣かないで下さい」と言った。

「我慢強いと思ってましたけど、意外に泣き虫なんですね」
「な、だって、だってさあ……」
「ああほら、そんなに泣かれると、あんまり守りがいがあって嬉しくなっちゃいます」
「それは……おかしいよお前」
「あなたのバーサーカーらしくていいじゃあありませんか。さあカリヤ、まだ恐ろしいですか?」

男の言葉におれはふと顔をあげ、見慣れた荒野を見渡した。以前ここにやって来た青年の言葉を思い出す。ここは古いお話の中。すべて決まっていて、何も動かない。何ひとつ変化せず、何もおれを傷つけないし、おれが悪くさせようもない、作り物の世界。昔いたところと比べて、ここのなんと心安らかなことだろう。
だけど。
おれはまた男のほうに視線を落とす。
いまだおれの手を掴んで離さない男は微笑んでおれに手を差し伸べている。
昔はこんなもの、なかった。

「……なぁ、外はどんなかな」
「相変わらずですよ。向こうは向こうで何も変わらない。だけど言ってるでしょう。今度も……今度は、私が一緒です。あなたがなんと言おうと引き下がりませんよ。私はあなたと行きたいんです。カリヤが降りてくるまで私はここを動かない」

優しい口調のくせに、頑なな物言いに俺は笑ってしまう。それならもう仕方がないと、おれはようやく頷いた。
男の白い頬に赤みがさっとさして、喜色が満ちる。大きく頷き返され、少しだけ恥ずかしくなる。 逃げ道を塞いでもらってることも、それに付け込んでることも自覚はしている。でも、それも全部許すみたいに男は笑っている。

「それなら、ランスロット。弱くて臆病で凡人でみじめな、このおれの騎士だというなら、責任もってちゃんと受け止めてくれよ」

おれは男に笑い返してそう言って、不自由な体で精一杯勢いをつけ、ばらばらと身を崩しながら男の待つほうへと飛び込んだ。











どさりと、転がり落ちた先は硬い床の上だ。打ち付けた頭がじんじんする。
何度か瞬きをして、衝撃で真っ白な頭でなんとか現状を把握しようとする。 痛む頭の上のほうから朝日が燦々と差してひどく眩しい。目の先には狭い天井、壁にかけられた安っぽいカレンダーと、片腕をひっかけたままのベッド……さっきはここから落ちたんだろう。別に、いつも通りの自分の部屋だ。一人暮らしの1DKの、雨漏りのあとの滲む木目の天井を見上げたまま、おれはまだ目覚めの衝撃から覚めきれずにいる。背中も頭も痛い。急な覚醒でまわらない頭の中でおれはなぜか、何に対してかもわからないのに、酷くショックを受けている。また、と思う。なにが、ともわからず、痛みではない源のわからない涙が滲んでくる。……また。

「また落ちたんですか?」

不意に、壁の向こうから男が顔を覗かせた。呆れたように少しだけ笑いながら、怪我はないでしょうね、と言う。

「……ば、……らんす、ろっと?」
「はい」

はいそうです、ランスロットですよ。いま手が離せないんで、いい加減寝惚けてないで、顔くらい自分で洗ってください。 澄ました調子で言いながら、ランスロットは隣の小さな台所で、なにか料理をしているらしい。手際よさげにフライパンを揺するたび、ぱちぱち油の跳ねる音がする。

「……卵?」
「鯖ですけど」

安かったんで、とランスロットは忙しく立ち回りながら言う。かちゃかちゃ音をたてて片手で皿を出したり、沸いた湯をカップに注いでインスタントコーヒーをいれたりしている。それからいまだ床に寝そべったままの呆けているおれに動じもせず、こぼさないで下さいね、と言って耳元の床に直接カップを置いた。

「今日からまた取材旅行でしょう、パンよりごはんのほうが腹持ちいいですよ」

折り畳みの小さな、一人用の机いっぱいに皿を並べて、最後に自分のマグを持ったランスロットは立ったまま無言でおれをじっと見つめる。さすがにおれも起き上がり、大きく伸びをしてから机に向かい背を丸めて正座した。それでようやくランスロットも背筋をのばして席につく。

「あー……すごい寝た」
「でしょうね。顔に布団のあとついてますよ」
「なんか、すごい長い夢みたなぁ」
「はいはい、いい加減こっちに戻ってきてくださいね」

油の乗った鯖とごはんを、味噌汁を挟みながら交互に口に運びながらうーん……と、もごもご答える。まだあまり頭がはっきりしないくらい、とても長い長い夢だった。十年は寝てた気がする、と言うおれに、ランスロットは十年ですって、と眉をひそめた。

「冗談じゃありませんよ。百年は、かかった」

茶碗いっぱいによそった白飯を口に押し込みながら意味のわからないことを言うランスロットに、おれはいまだ寝ぼけた頭で、コーヒーじゃなくてお茶が飲みたいと、いつ言おうか考えていた。




ぼんやりしたまま歯を磨き、顔を洗って洗面所から出たところでようやく目が覚めてきて、おれは今更な疑問を口にした。

「ランスロットお前、なんでここにいるんだっけ」
「なんでって、なんですか」

答えになってない返事をしながら、ランスロットは相変わらず忙しく立ち働いている。すでに食器の片付けられた机の上にはおれの着替えと携帯とカメラが、きちんと並んでいた。通りますよ、とおれの前を横切るランスロットの手には俺の旅行鞄。向かう先の玄関には、すでにもう一つ、おれのものではないスーツケースが置かれている。

「いや、なんか……なんでだっけ?」
「お隣同士だからでしょう。ご実家でも学生寮でも社員寮でも、あなたが会社を辞めて、フリーになった今も」
「それっておかしくないか?」
「何がです? おかしくないですよ」
「そうかなぁ」
「おかしくないです。当然の結果です」
「うーん……まぁ、そうなのかな」
「そうですとも」

それより時間はいいんですかと問われて、慌てて濡れたままの髪も放って用意された着替えのほうに向かった。なんだかちゃんと納得しないまま終わってしまったけど、目覚めた時、ランスロットがいることに気付いて酷く安心したことを思い出して、まあいいか、と思う。ちゃんといた、いてくれた、と思う相手が当然だと言って傍にいてくれるのだ。安堵と喜びさえあれ、おかしいことなど確かに何もない。

「ほら雁夜、急いで」
ランスロットはすでに自分のスーツケースとおれの鞄を両方持って玄関に立っている。 「携帯なら私持ってますから」と言うので結局カメラだけを手にして、おれはばたばたと部屋を後にする。部屋から一歩外に出た途端、きつい夏の日差しが目を刺した。眩しい。目を瞬かせながらがちゃがちゃと鍵をかけるその間に、ランスロットはさっさと先に立って歩き出す。熱い空気の中、逆光で影のように見える男を慌てて追いかけながら、ランス早い、荷物、そもそもお前、行き先知らないだろ、と切れ切れに文句を言うおれに、ランスロットはようやく振り返る。そうして真昼の日の中で眩しげに目を細め、どこへなりともついていきますよ、と楽しげに笑って俺の手をとった。