(初花)


花器でも作ろう、と思いついた。茎はないから、花瓶や剣山じゃなくて水盤がいい。
実家の床の間に飾ってあったような、口の広くて浅い器だ。
手にかける前の姉がよくあれに水を注いで花を浮かべていた。庭の手入れをしたあと、がくから落ちてしまった花や散ってしまった花弁をいちいち拾い集めては水盤に花を盛っていたのをよく覚えている。

「だって可哀想でしょう」
まだこんなに綺麗なのにと、たしか姉はそう言った。
そのとき俺はほとんど上の空で、水に濡れた姉の白い手に朱色の花びらが張り付くのに目を奪われていた。姉は綺麗な人だった。それには殺してからはじめて気付いたように思うけど、こうして思い返してみると、ほとんどの物事に無関心だった自分にしては姉の仕草や表情なんかを随分よく観察していたらしいことに驚かされる。意識していなかっただけで、昔から見惚れてばかりいたのかもしれない。物心つく前からずっと一緒で、嫌でも目に入ってくる綺麗な女。生まれながらの供物みたいに、役割みたいに、運命みたいに、それかなにかのメタファーみたいに、俺がはじめて殺す相手としてそこに存在していた女だった。


まあ。
それは今は、どうでもいい。
昔の思い出を一瞬で頭からほっぽり出して、俺は自分の胸元に視線を落とした。心臓のなくなった跡には夕べから槿の花が満開で、休みなく花弁を散らしている。冷たいコンクリートの地面に落ちた花びらは俺にしか見えないで、そのうち消えてしまう。

「こんなにキレイなのにね」

可哀想だよね。ねえ、姉ちゃん。



俺の心臓は青髭の旦那に出会った瞬間ボタンみたいに弾けて飛んでいった。
血管をひっこ抜いて、血飛沫散らして俺から飛び出していったそれは、あの時旦那が最高にCOOLに殺した子どもの肉片が散らばる床に確かに音を立てて落ちたように思うのだけど、そのときは、それにそれからもしばらくは、そんなのに構ってられないくらい楽しくて忘れてしまっていた。思い出したのは心臓のあった場所から花が咲き始めるに至ってようやくだった。なんだか胸のあたりに異和感を感じて、手を伸ばしてみれば植物の柔らかな感触に触れたのだ。視線を落としたら薔薇が咲いていた。俺の肌の上に根を張って、どうなってるのかシャツの布地の上にまで葉と花を茂らせ、薄い黄色の花弁がゆっくりと、けれど目に見える速さで開いていく。

「おお!? お、おお〜……」

とか、思わずよくわからない驚きと感嘆の声をあげたら、隣で子どもの腹を開いていた旦那が首をかしげてこっちに目を向けた。

「リュウノスケ、どうしました?」
「いやあ、これ見てよ旦那」

なんだろこれ、どう思う? とシャツの裾をぱたぱた開いたり引っ張ったりしてみせたら、その拍子に花びらがばらばらと散った。が、旦那はますます深く首をかしげるばかりだ。

「これとは一体……リュウノスケの腹ですか? 男性にしては白いですね」
「えっ、そうかな? いやちょっとそんな見ないで旦那、なんか恥ずかしい……いやいやそうじゃなくてさ、ほらこの…ええっと……えー?」

落ちた花弁をすくい上げて両手に広げてみせても、旦那はわからないみたいだった。旦那の大きな目の前にかざしてみても、触らせてみても、旦那には見えないし触った感覚もないらしい。やってるうちにだんだん馬鹿らしくなってきて、「あーいいや旦那ごめん、やっぱ俺の勘違いだわ」とかなり適当に切り上げたが、旦那も特に興味はないらしく、そうですか? とだけ言ってすぐ、やりかけだった作業に向き直った。



そのあと攫ってきた子どもたちにも尋ねてみたが、やはり俺の花は見えないらしかった。まあ、肌に根を張ってるくせに服の上から咲いてるところからして、現実の花じゃないことくらいはわかっていたが。子どもの怯えきった顔を更に困惑で青褪めさせるのは面白かったけど、それは旦那と共有できない楽しみだったからすぐにやめた。
俺は自分の人生を、一人きりなりにずっとめいっぱい楽しんできた。だけど旦那と出会って、この気絶するくらい楽しい日々を知ってしまった今は、ともかくなにもかもを二人でしたい。旦那のすることやること、全部を最初から最後までずっと見ていたいし、それに出来れば、俺も旦那が喜ぶことをしたい。だって俺ばっかり旦那に楽しませてもらってばかりじゃ申し訳ない。俺だって旦那を楽しませたい。笑わせたい。だから俺にしか見えない花なんかに構ってる暇はない。そんなの時間の無駄だ。もったいねぇ。

そうとも。
俺は胸を鷲掴み、わらわら溢れる薄紫色の藤の房を毟り取って床に捨てた。
花は胸から払い落とせば、気付いたときには跡形もなく消えている。さっさと忘れて意識しなければいいのだ。指に絡みつく柔らかい感触も、冷たい工房の空気に混じる甘い香りも俺には本物だけど、旦那に見えないなら、なくていい。
ああ、だけどそういえば、俺の心臓。
あれはほんとに、どこにいったんだっけ?



「旦那」
だめもとで呼びかけてみる。
案の定大きな背中は振り返る気配もなく、猫背の背中をさらに丸めて水晶玉を覗き込んでいる。俺からは見えないけど、あれには旦那がジャンヌと信じる、あの金髪の女の子が映ってるんだろう。時々深い溜息をついては私のジャンヌ、私の聖処女と大仰に讃える呟きが聞こえる。旦那が彼女を見つけてから、俺たちは単独行動が増えた。旦那は時々あの聖処女ちゃんに会いに行っているようだったし、工房にいても、こうやって水晶玉にかじりついている時間が増えた。俺は俺で、旦那が質より数を求めはじめたからイケニエの調達に忙しい。

「だーんなー」
旦那は彼女に会いに行くたび強く拒絶されるみたいで、帰ってくるとひどく憤慨した様子で荒々しく神を冒涜する言葉を喚き散らした。俺は「そうだね」とか「わかるよ」なんて当たり障りない言葉を怒声に差し込み、うんうん頷いてかろうじて会話のかたちを取りながら、旦那が落ち着くのを待つ。ひとしきり発散して一息つくと今度はがっくり肩を落として落ち込んでしまうので、そこからはこっちのターンとばかりに俺は旦那のフォローのためにべらべら口を動かしはじめる。大丈夫だよ、彼女だっていつかわかってくれるよ、旦那の気持ちは絶対絶対伝わるよ、そのためにも、トクシンとセーハイ戦争がんばろう?
いつも同じようなことしか言えない自分に少し苛立つけど、ともかく必死で口を動かすうちに旦那の気分は少しずつ浮上してくる。そのころに、ようやく俺のほうを見てくれる。

「慰めてくれているのですね、リュウノスケ。ありがとうございます」
「やだなぁ旦那、いちいちそんなの照れくさいって。それよりほら、善は急げだ。聖処女ちゃんのためにもいっぱいいっぱい殺さなきゃね。俺、旦那が出かけてる間にストック増やしといたんだ」
「おお、さすがリュウノスケ! ならば早速、涜神に励むとしましょうか」
「合点承知だ旦那ぁ!」

すっかり元気を取り戻した旦那につられて俺も勢い良く立ち上がる、そのときぶわりと舞い上がる、目の前が霞むくらいの大量の花。この世の春とばかりに花弁を開く八重ざきの薔薇に牡丹、ハナズオウに木瓜の花。髪や頬、指先に絡んで立ち昇る噎せかえるほどの甘たるい香りに一人で恥ずかしくなって、俺はそのたび、なんだか少し泣きそうになる。

「旦那。旦那ってば」
床に腹ばいに寝そべったまま、懲りずに旦那の背中に声をかける。旦那の耳にはやっぱり届かなくて、彼はこっちを見ない。
少し眠かった。頬杖をついていた腕を倒して、頭をもたせかける。コンクリートの床との間で花が押し潰されて胸を冷やした。甘い香りがあたりに漂う。

ふと、姉のことを思い出した。
可哀想ね、と言って花を拾って浮かべる白い腕。

だんな。青髭のだんな。
声にもしないで、口の中だけで呼びかける。きつく目を閉じても冷たい工房の空気に花の香りはくっきりと浮かぶ。ここにないはずの心臓がどこか知らない場所で痛んでいる。
旦那。……旦那。いったいいつから、俺の声はこんなに小さくなってしまったんだろう。



手放しで成功とは言えないが使えなくもない。
子どもの肋骨に人の皮を張りつけた花器は、なんとも半端な出来に仕上がった。形が歪なのは素材を活かしたから仕方がないにしても、そもそも革製っていうのに無理があったのかもしれない。胸部の肋骨になめした子どもの革を張っただけのシンプルなものだが、単純なぶん粗が目立つ。弱い骨だから釘を打つ訳にもいかなくて、ただ接着剤で貼っただけの革はいつか剥がれそうで、だいぶ心もとない。皮をなめす作業も、最初に比べたらだいぶ上達したけど、やっぱりネットで調べただけの知識では完璧には程遠いようだ。
まあ、とりあえずは使ってみようと水を注いだら、骨の削りカスと一緒に脂が浮いて、水面に虹色の膜を張った。ありゃ、と思って一旦水を捨て入れなおしたが、ゴミは取り除けても脂はしつこく浮かんで水をぎらぎらさせる。しばらく頭を捻ってみたが、すぐに面倒臭くなって諦めた。どのみちこれが花を盛るものだとわかるのは俺だけだし、それにこれはアートじゃない。ただの感傷による、ちょっとした思いつきの工作だ。
旦那には見えないし、見せない。そんなら、もうこれで完成でいいや、という投げやりな気持ちで、胸の花を水面に散らした。今日のは白い椿だった。



「リュウノスケ、あれは新しい作品ですか?」
不意に声をかけられて、思わず肩が強張った。旦那が長い爪の先で指差すのは間違いなく数日前に完成させた例の水盤だ。工房の隅に、他の失敗作と一緒にこっそり置いておいたのに、何だって今頃目をつけるのか。溜息をつきそうになるのをこらえ、何気ない風を装って「あー、あれね」と答える。

「アートっていうか工作かなぁ。ただの廃材の再利用。失敗作だから隠しといたのに、ばれちゃったなー」
「失敗?」
「うん。思ったようにいかなかったんだ。思ったほど綺麗じゃなかった」

だからあんま見ないで、と笑ったら、旦那は不思議そうな顔で首をかしげ、そうですかねぇ、とか言いながら水盤に近づいて行く。ちょ、と焦った声をあげる俺に構わず旦那は水盤の傍にしゃがみこみ、しげしげと眺め始めた。張りっぱなしの水面にはこの前の椿がまだ消えずに浮かんでいて、見えはしないのだろうが、そのあたりに視線を落とす旦那に居たたまれない気分になる。ああもう、いつも俺の話なんかほとんど聞き流すくせに、なんだってこんなときばっかり興味を持つのか。旦那を引きずり戻すため、両手に抱えた子どもの内臓を一旦腹に戻すべきか逡巡する間にも、旦那は水面に指を差し入れたりしている。

「ね、ね、旦那。ちょっと」
「私はいいと思いますよ。まあ多少不安定で危なっかしい感じはしますが。何に使うものなのですか?」
「いや別に、えっと」
「水が張ってありますね」
「あのさ旦那、もうほんと」
「花でも浮かべたら美しいでしょうね」
「な、」
「ああ、それがいい。失敗なんかじゃありませんよリュウノスケ。これには花を飾りましょう」

思わず絶句してしまった。なに、今なんて言ったこの人。
黙りこくる俺を旦那は訝しげに見上げて、どうしました? と尋ねてくる。なにか答えなくちゃと思うけど、いつもなら出てくる適当な言葉がなにも浮かばない。なんだか感情が溢れて、呼吸もうまく出来ないくらいで、ただ必死になって胸元を押さえつけるくらいしか出来なかった。ばらばら、ぼろぼろ花が溢れてとまらない。床に散乱する子どもの血や肉片の上に、死に際の喀血みたいに真っ赤なダリアや濃い紫の芙蓉が散らばる。暗い工房でも幻の花は鮮やかに映って、目が眩みそうだった。旦那、となんとか搾り出した擦れ声にも、旦那は「はい、なんでしょう」と律儀に返してくれる。嬉しかった。

旦那、旦那。うん。
うん、そうだよ。なんでわかったの?

「旦那」
「はい」
「旦那……あのね、訳わかんないかもだけど、聞いて。俺さ、俺は…弱いけど、なんにも出来ないけど、けどあんたのためなら何でもするよ」
「……リュウノスケ?」
「なんだって、する。出来る」
「リュウノスケ。お気持ちは嬉しいですが、私はあなたには、何も」
「違うんだ。俺がさ、勝手に捧げたいだけなんだ。わかってるよ。旦那はそんなの、全然いらないよね。けどそれでも俺は、あんたにあげられるものなら全部あげるし、なんだってやるし、その準備はもうずっと前から出来てるって、そんだけ。それだけ、知っておいて」
ね? と返事を促せば、旦那は明らかにわかっていなさそうに首を傾げながらも、神妙な声で「はい」と頷いてくれた。わからなくても見えなくても、なんとなくでも感じ取ってくれて、目を向けてくれて、褒めてくれて、話を聞いてくれた。わからなくても知ってくれた。それが嬉しくて、本当にすごく嬉しくて、ちょっと泣きそうなくらいだ。泣き喚いて、大声あげて、旦那、ほんとはもっともっと、言いたいことがある。実は、俺の心臓はあんたが持ってるんだ。あんたのとこにあるんだ。知らないだろ?俺もどこに失くしたかと思ってたけど、今ならわかる。失くしてなんかなかった。はじめて会ったときから、自覚もないうちから、俺は俺の全てをあんたに投げ出してたんだ。 あんたに自分をあげたくて、捧げたくて、求められるのをずっと待ってるんだよ。
俺の宗教とは違うけど、自分の肉を食べてもらうため炎に飛び込んだ兎みたいにさ。あんたの、おなかがすいたの一言を待っている。炎の前でじりじりと、とうに自分の所有物でなくなった肉体に花を咲かせて、いつかその献身の花が、散らずに実るのを待っている。

だから、旦那。
あんたは俺を必要としないから、この花はずっとあんたの目には映らず、散り続けるだろうけど、それでも、知っていてね。俺はずっとあんたのものだってこと、どうか覚えていて。それでいつか、万が一、あんたに俺がなにかを捧げることが出来たら、そしたら、褒めてね。「失敗なんかじゃない」って、ちょっとびっくりするくらい嬉しかったから、また言ってくれ。

「じゃあさ旦那、花はないから、とりあえずこの子の心臓でも浮かべてみよっか」

それまではこうやって二人きり、めいっぱい楽しもうね!







「きっとこの世界は神様の愛に満ちてるよ」

橋の欄干に前のめりになって水上の旦那を見下ろしながら、あのときの旦那の喜びようを思い返している。 あんなので、あんなに喜んでもらえるなんて思わなかった。 ずっと考えてたこと、俺が信じてきたことを言っただけなのに、旦那はすごく喜んでくれた。誰も知らなかった俺の話をあんなに真剣に聞いてくれて、しかも信じてくれるなんて、むしろこっちが感謝しなきゃいけないくらいだというのに。なのにそれで、俺の花にまで気付いてくれるなんて。
なんか得しちゃったなぁ、と思わずゆるんでくる顔そのままに、手を胸元にやる。花は咲いていない。
あのときを最後に、胸の花は咲かなくなった。



旦那がまたなんかスゲェことをやる、と期待で小躍りする俺の胸には木蓮が咲いていた。胸を覆う強い香りのハクモクレンが、くるくる回るたび焦土と化した工房に散っていく。それに、俺と同じくらい興奮していた旦那がふと目を止めた。

「旦那?」
「リュウノスケ、あなたの胸に花が咲いている」
「え? って、うわっ」

思わず脚がつんのめって、その場に尻餅をついてしまった。大丈夫ですか、と伸ばされた手に顔を上げて、そこで視界の違和感に気がついた。少しも霞まないで、天井から差し込む光に照らされた旦那の顔が見える。慌てて胸元に視線を落とすと、さっきまで満開だった白い大振りの花は跡形もなく消えていた。床に散った花びらもすでに見えない。落ちた花びらがこんなに早く消えることも、胸に咲いていた花まで消えるのも初めてのことだった。

「おや、気のせいですかね。なにか、白い花があなたの胸に咲いていたように見えたのですが」

旦那はそう言って、尻餅をついたままの俺の胸にぺたりと大きな手をあてた。そのままするりと腹まで手を降ろして、首を傾げると、呆然としたままの俺を両手で抱えて立ち上がらせた。

「さあ、お怪我はありませんか」
「うん……ああ、うん、ありがと旦那」
「いいえ、妙なことを言って脚をとらせてしまいましたね。申し訳ありません」
「ううん。旦那、ありがとう」
「リュウノスケ?」
「わかってもらえるなんて思わなかったよ。ほんと、ほんとにありがと。俺すっげぇ嬉しい」

だって、花にまで気付いてくれるなんて思わなかった。
嬉しくて嬉しくて何度もありがとうと繰り返す俺に、旦那は不思議そうな顔をする。

「何故です、リュウノスケ。礼を陳べるべきは私のほうではないですか。ジャンヌと共に私が失った道を、信仰を、哲学をすべて、あなたは完璧なかたちで再び与えてくれた。かつての私を導いたのが聖処女ジャンヌであるならば、あなたは今現在のこの私を導く使徒なのですよ、リュウノスケ」
「……いや旦那、それはいくらなんでも言い過ぎだって」
「ああまたそんなことを。あなたはもっと自分の価値を知るべきです、我が主、我がマスターよ。かつて私が人であった頃、自ら呪い、汚し尽くした魂が、死して霊となり、この最果てのような世界に仮初の生を受けてようやく、出会うはずもなかったあなたによって救われた。数百年嘆き続けていた私の魂の慟哭がようやく止んだのです。あなたの言葉、哲学によって。リュウノスケ、あなたは本当に、私を救うそのためにこそ生まれてきたのかもしれない」

そう言って、旦那はにっこりと満足げに、それは朗らかに笑った。俺は棒立ちのままぽかんとして、そんな旦那を見上げることしか出来ない。まわりくどい旦那の弁舌には慣れていたし、今のはわかりやすかった。けれど、旦那の言葉をシンプルに噛み砕くのに長けた俺の頭は今回、しばらく完全に停止した。
だって噛み砕くどころじゃない。シンプルすぎて、わかりやすすぎる。さらりと滅茶苦茶なことを言われてしまった。なんだそれ。俺の人生、丸ごとあんたのためだってこと? 俺が生まれてきた理由も、今この瞬間のためだっていうの、あんた。なにそれ。そんな。そんなのは。

「……旦那」
「はいリュウノスケ」
「それ、いい」


呟く声が上擦っていた。全身が熱くて、顔を覆う指先は喜びのあまり軽く震えている。ほんの少し前なら、浮かれた色の花が壊れた工房中、嵐みたいに大量に、空まで舞い上がってるところだ。前よりすごい。胸をぎゅうぎゅう抑えつけてないと飛んでいきそうなくらい浮かれている。信じられないくらい幸福だった。

「すごいよそれ……ほんとに、俺、そうだったら。だったら、いいなぁ」

切れ切れに呟く俺に旦那はちょっと目を瞠って、それからはじめて見る、ちょっと困ったような笑みを浮かべると、あやすみたいに俺の肩に手を置いた。旦那ありがと。声にすると涙声になっていて少し恥ずかしくて、それでもとても充たされていた。ありがとう。こんな褒め言葉、想像もしなかったよ。これ以上ってない。
強く閉じたまなうらに、不意に姉の姿が浮かんだ。
ああそうだ、姉ちゃん。
あのね、俺も見つけたよ、俺の役割。俺の運命。この人に見つけてもらったんだ。

「旦那、やっぱりそうだ。神様はいるよ」

ずっと信じてきた神のシナリオが真実、実感としてこの身に降りてきた。与えられたらしい、この俺の役どころは喜んで享受しよう。今このときが俺の見せ所、正念場。大見得切って喝采を待つ。万が一神とやらが「それは違う」とストップをかけようと、今更俺はこの舞台を、この人と演じる舞台を降りてなどやらない。神よりよっぽどCOOLな彼が俺を認めてくれたのだ。彼の信じる役割こそが俺の役割で運命だ。俺はそれを疑う余地なく信じている。

そしてそれはどうやら、果たされた。
旦那は晴れ晴れとした表情で呪う天を仰いでいる。
破壊された天井から差し込む冬の日差しが、スポットライトみたいに彼を照らしている。





移動する間に日は落ち、川の水面は夕日に照らされ赤く染まっていた。まるで血のような色に、これから起こることを期待せずにはいれない。こらえようにも止まらない笑みが今はもう咲かない花の代わりにどんどん溢れてくる。 あと一時間もせずに、完全な闇に沈むであろう未遠川。ここが旦那の次の舞台だ。 誰も見たこともない大スペクタクル、最高のCOOLがこれからここで始まる。 俺は舞台袖という一番の観客席でそれを楽しむつもりだ。

「がんばれ旦那ー! 俺ここでずっと見てっからね! 最後まで超応援してるからさぁ旦那ぁー!!」

すべてを見渡せる橋の上から、水上の旦那に届くよう声を張り上げる。
楽しげに笑ってこちらに手を振る旦那と、その手の中の人皮の魔書。旦那の足元で蠢くグロテスクな触手。下から吹き上げる風はそいつらのために海の匂いを含み、俺の髪やジャケットを乱す。魔書に視線を落とした旦那の、低く威厳に満ちた声があたりに響いて、川面に不穏な波紋を広げ始める。
期待に震える体を持て余して、勢いよく顔をあげれば視界いっぱいに広がる夕暮れ空と赤く染まる町並み。目に眩しい、生きたまま取り出した心臓みたいな太陽と溶かした肉片みたいな雲。俺は五感いっぱいを使って、このどこまでも続く果てのない舞台を愛おしむ。 世界はこんなにも楽しく、面白く、神の愛に満ちて美しい。

俺は嘆息し、そして出番を終え舞台袖に下がった一人の役者として、天上の観客席へ向けて恭しく両手を広げ一礼をした。









(誕生日)


探し求めていたものをついに見つけた。
自分の腹の中から、それは今もどくどくと溢れている。
これが死。これが真実の赤。こんなところにあったなんて。

今まで掘り返してきたどんな腸よりも綺麗で鮮やかな色は目に眩しいほどだった。
俺の手の中に零れたそれに思わず頬擦りすると、ぬるりとなじんだ感触になにか張り付くものが混じった。震えのとまらない手を目の前にかざして見ると、花びららしいものが血に混じっている。赤く糸を引いて指先からゆっくりすべり落ちていくそれがなんの花なのかはもうわからない。血と潮の匂いに混じって、植物の甘い香りがした。

俺は少しだけ驚いて、だけどすぐにわかって、愛おしさに目を細めた。そっか、と頷いて、腹から溢れる血と花を、力の入らない両手で抱き締める。

そっか。俺は、俺の答えを産んだんだ。
だって自分の血なんて、はじめて見た訳じゃない。
それが今こんなにも美しく、完璧な答えとして、泣き出しそうなほど幸福な救いとして俺の目に映るのは、きっと俺が旦那に、旦那が求めていたものをあげられたからなんだろう。幸福以外の言葉が見つからない。笑いが止まらなくって苦しいくらいだ。

ああ旦那、旦那。あんたにも見せたいな。
俺が捧げた心臓がこんなかたちで報われるなんてさ、思ってもみなかったよ。
旦那、ねえこれって神様からのご褒美かな? それともあんたの?

旦那。ほんとにありがとう。あんたが大好きだったよ。

  二度目の衝撃に吹っ飛ばされるその直前、巨大な光の柱が旦那に振り下ろされるのを見た。
旦那、きっとあれが俺たちの舞台の幕だね。途端に真っ暗になった世界のなか、俺は笑いながら充たされながら幸福の絶頂で、見えない観客達の割れんばかりの拍手喝采を確かに聞いた気がした。






20120419