海に向かう始発の電車を待っていた。
線路を挟んだ対岸ホームと、駅名の看板の向こうには薄青い未明の空。明けきらない春先の空気はまだすこし冷たい。薄いタイツ越しに触れる待合席のプラスチックはいつまでたっても温まらず、私の腿を冷やし続けた。隣に座るおじさんは猫背の背をさらに丸めて、寒いね、コートを着てこればよかったね、ごめんね、としきりに謝っている。そのたびに大丈夫、平気、と前を向いたままこたえるのだけど、おじさんのごめんねはちっともやまないので「もうあんまり寒いとかそういうの、わかるけど感じないの」と言ったらようやく、黙った。あとはもうずっと無言のまま、ふたりきり、ほかに誰もいないホームで海の街まで行く電車を待ち続けた。ゆっくりゆっくり、日が昇っていった。
海に行こうと雁夜おじさんが言った。
幽霊みたいな顔をして。全身を蟲の粘液と自分の汚物で濡らしたままで。
まだ年の明ける前、大事な仕事に行くと半身を引きずりながら間桐の家を出たおじさんはしばらくして、死体そのものみたいにぼろぼろの体で戻ってきた。自分の脚で。わざわざ、まっすぐにあの蟲蔵まで。自分から蟲の餌になりに戻ったんだろうかを思いながら、蟲に覆い尽くされていくその姿をずっと眺めていた。喰われて死んだと思ったけれど、おじさんはまだ生きている。生きて、今もまだ蟲蔵にいる。あのとき体の中にいた蟲は「お仕事」でみんな死んでしまったそうだけど、今はちゃんと、新しい蟲がおじさんの体内に満ちて、おじさんを生かしている。それがいいことか悪いことかの判別は私にはつかない。おじさんは今も私には笑いかけるけれど、それは以前よりずっと虚ろで死人じみている。
海に行こう桜ちゃん。きれいなもの、見よう。
蟲蔵に降りた私を迎えるおじさんの、もう見えていない濁った半目。かろうじて無事なはずのもう半分も、私を見ているんだか、いないんだか。焦点があっていないのは疲労からかそもそも見る気がないのか。海。綺麗だよ。誘うその声だけが妙に明るい。
はぁ、と私は応えて、じゃあ、私これからだから、おじさんはお風呂にでも入って、からだをきれいにしてきて。おじさん蟲でなんか、ぬるぬるしてるから、お風呂。ひとりで入れる? と言ったら、がんばるよ、と笑ってのろのろと這うように階段を上って行った。私はさっきまでおじさんの横たわっていた場所に身を預けながら、だけどおじいさまが許すかな、とぼんやり考えて、いつものように思考を止めた。
玄関を開け門を抜けても、おじいさまは起きてこなかった。気付いていないはずはないから、止めて来なかったのはどうせ逃げられやしないと思っているからだろう。それくらいは私もわかっている。逃げられない。おじさんだってさすがにもうわかっているだろう。だからあえておじいさまのことは何ひとつ口にしないで、着替えた私の手をとり、俯いたまま屋敷をあとにした。
不自由なおじさんの歩みは遅く、手を引かれていたのがすぐに並んで歩くようになり、気を抜くとすぐ先に立って歩いてしまいそうになるので、ずっと隣のおじさんの歩みをうかがっていなければならなかった。おじさんの手は冷たく、繋いでいるとこちらの体温まで持っていかれそうだった。そう思っていたら隣のおじさんが私を見下ろし、桜ちゃんの手は冷たいね、と痛ましげに言うので、わからなくなった。どちらのせいかわからないまま、ただ冷え冷えとした気持ちのまま駅まで歩いて行った。
電車の中は暖かい。足元のヒーターが私の揃えた脚を裏から温めてだんだんと眠たくなってくる。蟲蔵のあとだから余計だ。ずっと黙ったままのおじさんはもしかすると寝てしまったかと、隣を仰ぎ見ればしっかと目を開けて正面をじっと見つめているのだった。つられて前に顔を戻す。向かいの窓の外に広がるのは横へ横へと流れて行く明け方の田舎町の景色。茶畑と棚田が続いて時々古い住宅がかたまっている。遠くに連なる山々の合間がきらきら眩しくて、海が近いのだとわかった。昇る朝日がゆれる波間に差して、ここにいる私のところまで光を散らしている。海だ、とおじさんが呟いた。海だね、と私も返しておく。
電車がトンネルにさしかかって、少しの間暗くなった。轟々いう大きな音が電車の中いっぱいに響いて、私たちはまた黙りこくる。トンネルを抜けて、しばらくまた朝の風景が過ぎていって、ひび割れたアナウンスが流れてから人のまばらな古い駅に吸い込まれていく。がたんとひとつ揺れて電車が停まって扉が開く。私たちしか乗っていないこの車両にはここでも誰も乗ってこなかった。無意味に開いた扉がそのまま閉じて、発車します、の声と同時にまた動き出す。おじさんの体がそれに合わせてぐらつくのを私は横目でちらりと窺う。おじさんは気にせずまだ正面を凝視している。電車の揺れが安定して、窓の向こうでまた朝の景色が流れていく頃、しのうか、とおじさんがぽつんと言った。うまく聞き取れなくて、首ごとおじさんのほうに向けたけれど、おじさんはやっぱり前だけを見つめている。しばらく無言でそうしていたら、「逃げられないならせめて死のうか」とおじさんが呟いた。
私は黙ったまますこしだけ考える。ねえ、それって、おじさん一人で? やっぱり私も? 聞き返そうとして、でも億劫になって私は何も言わずに前に向き直った。窓から入る朝日の光の束が向かいの座席に差し込んで、埃がきらきら光っている。それをなんとなしにじっと見つめながら、どうかな、と思う。おじさんはともかく、私は、どうかな。だってマキリの子どもは、おじいさまの許可なしには死ぬことも許されないのよ。
目的の終点の駅に着き、さびれたホームに一歩踏み出すと途端に潮の匂いが鼻をついた。
改札口の駅員さんに、おじさんが切符を大人ひとり子どもひとり、二枚分差し出すと、駅員さんが帽子の鍔を少し上げて胡散臭げな目をこっそり向けたのがわかった。私は自分からおじさんの手を握る。ひくり、と引き攣れのようにおじさんの腕が震える。雁夜おじさん私、ココアが飲みたいな、と言ってみせると、駅員は目を伏せつまらなそうに切符を受け取った。何も気付かないおじさんだけが、やっぱり少し寒いかな、と私を見下ろしてどこか嬉しげに笑う。いいえ、別に。
堤防の階段を上った先、見渡した海は一面金色に輝いていた。
誰もいない穏やかな海岸はしんとしてとても静かなのに、波間に跳ね返る光があんまり眩しくて騒々しくさえ感じるのだった。
「きれいだなぁ」
隣で、おじさんが呟く。疲れた呼吸の中で、感極まったように、はあ、と嘆息して、すごくきれいだ、と言う。
「死にたくねぇなぁ」
それを。
それを聞いたとき、おじさんがふと、心からのように、そう漏らすのを、耳にしたとき。
お腹を急にぎゅっと強く握り締められたようになって、目の前の光が一瞬強さを増したみたいに真っ白になった。何を。
ぐるぐる暴れ出す頭の中、なにひとつ言葉にならないその嵐の中から、それだけがぽんと放り出される。何を。何を言っているのおじさん。
感情を表情や態度に表すための機能はとうに錆びついて割れてしまっているのでおじさんは私の激情に気がつかない。カメラ持ってこればよかった、と言いながら、眩い朝日を正面から浴びて、砂浜へと続く階段を私の手を引いて降りていく。行こうよ桜ちゃん、海、きれいだねぇ。何を。何を何を。
「おじさん」
ねえ、死のうかって言ったじゃない。
死ねないの、わかってるけど。おじさんが私を死なせてくれることだって出来やしないの、わかってるけど。
それでもあなたは死にたいはず。だって、だってそう言ったじゃない。あなたはひとりだけでも、本当はもう全部終わらせて死んでしまいたいはず。死にたくないなんて絶対に思わない。思うはずがない。そんなこと、思っていいはずがない。
なのにどうしてそんな腑抜けた顔で、死にたくないなんて言えるの。なんでこんな、たかが海、たかが朝焼けで、死にたくないなんて思えるのよ。
「おじさん……気持ち悪い」
柔らかな砂浜に脚を何度もとられながら、ふらふらと波打ち際まで来たところで私は膝をつく。濡れた砂がタイツに張り付いて冷たい。手から一口飲んだだけのココアの缶が転がっていって海を茶色く濁らせた。くらくらする頭を下に向けて「吐いちゃう」と言ったら、海に見蕩れていたおじさんが慌てて隣にしゃがみ込む。途端に、げぇっ、と喉の奥から醜い音がして私はココア混じりの胃液を海に吐いた。一瞬熱く充血した頭はもう冷えて、同じように体も急に冷えていった。手先が冷たく胃の中だけがどくどく脈打っている。げっ、とまた喉の奥が鳴って、せりあがってきたものを波の合間にげろげろと吐いた。まだ生きた、たくさんの蟲だった。おじさんが声を失う気配がした。吐きながら、ふと笑いそうになる。朝日を浴びて一面金色に輝く海はこうして間近に見下ろせばただの無色の泡だった水で、海草の切れ端や舞い上がった砂で濁って、綺麗でもなんでもない。それを私がココアや胃液や蟲で更に汚している。今、おじさんの目に映るのだってそういう海のはずだ。おじさんが私の背に震える手を添えて、ゆっくりと上下に撫ぜはじめる。一瞬振り払いたい気持ちになるけど、そのままにさせておく。寒さだか恐れだかで小刻みに震え続ける冷たい手が次第に心地よくなってくる。そうして、死んじゃう、と言ってみる。気持ちが悪いのおじさん、私、死んじゃう。おじさんの手が止まった。
「だい、大丈夫……桜ちゃんは大丈夫だよ、死んだりしない、死なないよ……」
「だめ、死んじゃう」
「大丈夫だよ、大丈夫……おじさんが、ついてるから」
「本当?」
私は嘔吐の荒い息をおさめながら、もう一度、おじさんそれ本当? と尋ねた。
「私と、ずっと一緒にいてくれる?」
「いる、いるよ。おじさんは桜ちゃんとずっと一緒だよ」
「でも私が死んじゃったら?」
「桜ちゃんは死なないよ」
「でも、死んだら? おじさんはどうする?」
「そんな……そしたら……おじさんも死ぬよ」
「そう、きっとよ」
私は濡れた口元を拭いもしないでおじさんを振り返る。おじさんが目を見開き、驚いたような怯えたような顔で私を見つめ返す。なんて顔してるの、と私はまた少し笑いそうになる。変な気分だった。久しぶりに感情がたくさん動いている気配がして、そのために体中の蟲が暴れて騒ぐけどそれさえ新鮮でどこかおかしかった。なにもかも馬鹿馬鹿しくっておかしくって気が変になりそうだった。
私を凝視するおじさんの青い顔は、朝日がさしていつもより少しだけ明るく見えた。真っ白い髪にも日が透けてきらきら光っている。泣き出しそうな目元の睫も白い。それを眩しく思いながら、私はべたべたする口を開く。おじさん、私が死んだらきっと死んでね。一緒にいてね。おじさんが急に弾かれたように目を伏せて、止めていた手の動きを再開し始める。「死ぬから、死ぬから……」とうわ言のように繰り返しながら、さっきよりも大きく、ぶるぶる震える手で私の背を撫でる。死ぬから? だから、許してほしいの? とは言わず、私も首をまた海面のほうに向け舌を突き出す。げえ、と喉の奥が鳴って蟲が喉元をすり抜けていく。
おじさん。ねえおじさん。
そんな、蟲なしでは生きていけない醜いみじめな体になって、死にかけて、死んだほうがよっぽどましなような毎日を送る私のおじさん。
そのくせこんな陳腐な美しい景色ひとつで救われたような気になれるお手軽なおじさん。
最初から間桐の家に生まれたくせに、私よりまともな、おじさん。
私はもうこんな朝焼けも金色に輝く海も、美しいのだろうという認識しかできない。何かを美しいと思ったり、感動したりする器官は死んでしまった。わかるけど感じない。
だからおじさん、あなたがこの程度で救われた気持ちになることが私は許せない。
許せない、という思いはちゃんと感じる。あなたは私と一緒に救われたいと願っているのだろうけど、いまの私に残っているのは、もう憎しみだけ。救われたいわけじゃないの。海がきれいで朝がきれいで風が柔らかくてココアは温かい、それで? それがなんなの? 私の憎しみは、どうなるの。こんなのずっと一人で抱えていけっていうの。おじさん、あなたには、私と共に堕ちる義務がある。
だって私、知ってるのよ。おじさんが、私を生んだあのひとを殺そうとしたこと。おじさんは言わないけど、おじいさまが教えてくれたから知っている。あの優しかった、……優しかったのに、私をここにやった、あの人はおじさんのせいで壊れてしまったそうですね。遠坂のおじさまも死んだそうで。ねえおじさん信じられる? 私はそれを聞いても涙ひとつ流さなかった。やっぱり何も感じなかった。おじいさまはそんな私を褒めてくださった。私はそれがむしろ、少し嬉しかった。だからおじさん、あなたの罪悪感はまったく無意味であなたの一人よがりに過ぎないけれど、罪には違いないのだから、私にはあなたに罰を与える権利がある。私はそれを当たり前に行使させてもらう。
別に私は初めから、おじさんを救いの王子様のように夢見ていたわけでもなかったし、今だって、おじさんが一緒にいないと生きていけないとか、あなたの傍だけが唯一の安息の場所だとか、そんなふうに思って縋るわけじゃない。
ただもうおじさんだけを、例え気持ちの上だけでも、それがほんの一瞬であろうと、楽にはさせたくないの。誰でもいいから私より不幸な人が欲しいの。私だって、そういうのが欲しいの。そうしてそれは、あなたがいいの。私を助けられなかった、救ってあげられなかったと、ありもしないはずの押し付けがましい義務感を結局は果たせず、それどころか事態を悪化させた虚しい罪悪感に苛まれるあなたを見ていると、少しほっとするの。気持ちがいいの。
おじさんには私より不幸でいてほしい。私より不幸なあなたにずっと一緒にいてほしい。
私より不幸で、だけど私より不幸ぶらないでほしい。いつまでもいつまでも最底辺のみじめな場所から、可哀想な桜ちゃんの背をこうやって撫で続けていてほしいのよ。
ねえだから、死にたい、と思いながら生き続けてね。死にたくないなんてもう二度と、間違っても思わないでね。たかが海、たかが太陽で魂の救済を得ようだなんて、ぬるいこともう考えないでね。だって私たち逃げられないのよおじさん。逃がさない。
おじさん、私はいつかあなたの子を生まされるかもしれない。おじいさまに命じられて……あなたの子を私のこの蟲だらけの腹に宿したその時、あなたはやっぱり罪悪感に打ち震えながら謝るのでしょう。ごめんね桜ちゃん、と。助けてあげられなくてごめん、何も出来なくてごめん、君にばかり不幸を背負わせてごめん、君ばかりが不幸でごめん、と。私はそれを、聖母の笑みで許す。いいのよおじさん、仕様のないことよおじさん……これからもずっとずっと一緒にいましょうね。
ごめんね桜ちゃんとそれでも謝るおじさんの体はその頃きっと蟻の巣のように穴だらけで、薄い大きな額縁の中で両手両脚をピンで留められ標本のように壁に飾られている。そうでもしなければ体を支えてもいられないおじさんは、ごめんね、だけど桜ちゃんと本当の家族になれて嬉しくて、ごめんねと、申し訳なさそうに笑うのだ。ああ、そうよ。優しい、真実優しくて不幸な私は、この人の家族になって、家族を作ってやるんだから。嬉しいでしょ? 嬉しいならば、私よりは幸せなんだと思い込んで誰より不幸な私に謝って。謝れ。許してあげるから。
私は悲しげに微笑んでみせて、いいのよおじさん、と言ってあげる。そうしてガラスの壁をうっとりと撫でる。白いぼろぼろの腕を展翅され晒し者にされる惨めなおじさんに、言葉の上だけでも尚庇護され、憐れまれることに、私はやっぱり、どこかぞくぞくした喜びを感じるだろう。そんな、おぞましい未来。醜く狂った不幸の極地。けれど、それを思い浮かべる私の口元は笑みのかたちに吊りあがる。ああ私は、すっかりマキリの子どもだ。あなたよりもずっと、ずっと。
私の胃から際限なく溢れ出す蟲たちは波にさらわれ沖のほうに流されていく。
何匹かは抵抗するかのように、もともと水棲のいきものかのように波に逆らい泳ぐ姿勢を見せた。私はえずく間に紛れてこっそり、ふふ、と笑う。なんて浅ましく、醜く、生き汚いんだろう。私に似ている。
そんなことを考えながら、私は嘔吐の合間にくすくす笑ってはげえげえと蟲を海に放ち続ける。
おじさんは死ぬから死ぬから俺も死ぬからと言いながら、私の背をいつまでも撫で続けている。