目の端に血の色、と思ったら花だった。
真っ赤な芍薬に芙蓉、牡丹、鶏頭に、花をたくさん抱えて重たく下がる赤いつるバラ。ラナンキュラス、ダリア、足下で揺れる彼岸花。頭上からは、もう名前もわからない花の花弁が降り続いている。視界を埋め尽くすのは血みたいに赤い花ばかりだ。
緩慢にまばたきを繰り返すと風もないのに花弁の先が揺れた。体は重く、指先ひとつ動かすのも億劫だった。ひどく眠たい。瞼を閉じかけると、花の輪郭が滲んで血の涙が浮かぶようだった。夢の中のような景色の中で再び微睡み始める俺の目の端でまた、赤色が揺れた。芍薬のたくさん集まって咲いているあたり、固く閉じた濃い紫がかった蕾や、ほぐれかけた赤い実のような花弁が不自然に大きく揺らめき、とろとろと脆く崩れていくその向こうから音もなく現れたのは、巨大な魚の頭だった。俺の顔よりよほど大きい。ゼラチン質の眼球の表面に芍薬の丸い花弁を滑らせながら、俺に向かってなめらかに泳ぎ寄る。丸太のような胴体と縦に平たい尾びれをしならせると、深い灰暗色の鱗の先に鮮やかなオレンジ色がきらめいた。俺の身長を優に越える巨大魚は、静かに俺の顔の脇をかすめて頭上高くへと上昇していく。目で追って頭をもたげた俺の口から気泡がひとつ、ふたつ、ぷかりと浮かんで昇っていった。俺は瞬いてそれを見つめて、ようやく思い出す。ああそうだ。ここは、水の中なんだった。
気付いて見れば群生する赤い花々の中、花弁の間に潜り込んで赤い尾びれを揺らめかせる金魚がそこかしこに隠れている。頭上や俺の体近くには、花の群生を突っ切り回遊する巨大な淡水魚たち。そのたびに花は崩れ、大量の花弁が掻き回された水流に乗って目の前が真っ赤に染まる。腕にぬるりとした魚の肌が触れて、かたい鱗の先端が爪に一瞬引っ掛かる。足首に吸盤のある脚が吸い付き絡んでくるのに視線を落とせば、見慣れた旦那の海魔だった。
ああそうだ。旦那。
旦那どこだろ?
はたと思い至った丁度そのとき、甚大な量の水を隔てた向こうから「リュウノスケ、目が覚めたんですか?」と声がした。花を掻き分け、重たい水の中泳いでいくと、水槽の厚いガラス越しに微笑む旦那と目が合った。ぺたり、と水槽に這わせた大きな手のひらに、俺もガラス越しに触れる。旦那の笑みが深まる。
「さあリュウノスケ、本日のショーの時間ですよ」
旦那の手の中には怯えて声も出ない子どもたち。泣き腫らした目をいっぱいに開いて、水の中の俺を見つめている。地下貯水槽の天井いっぱいまでガラスを張った、この広い水槽とその照明のために、旦那と子どもたちの顔の上には薄青いラムネ瓶色の光が漂っている。俺たちの工房は今やまるで水族館だ。展示物は、俺だけだけど。
「ショー」への期待に胸を膨らませる俺の前で旦那の腕が手品師みたいに恭しく、大袈裟に翳されて、つられて視線を奪われた瞬間に花ではない本物の赤色が勢いよく、鮮やかに咲いた。一呼吸置いてあがる残りの子どもたちの絶叫。水槽にびしゃりと血が飛び、音をたて臓物が叩きつけられる。旦那が楽しそうに笑う声が、向こうから聞こえている。
俺がまだ、水槽の向こう側にいた頃。
旦那が子供たちの臓物を生きたまま弾け散らすのをただ眺めるのでなく、共に楽しんでいた頃に、俺は旦那に、あれは今思えば多分、懇願されたのだった。
旦那は俺の肩に両手を置いて、貴方が大切です、と言った。
「あはは、どうしたの急に。うん、俺もねー、旦那のこと超大切だよ」
「この世の何ものにも代えがたい」
「うん、俺はそうだけど、旦那はジャンヌさんが一番なんじゃないの?」
「貴方が本当に、大事で、大切なんですリュウノスケ」
「うん?」
「失いたくない」
「俺はどこにも行かないよ旦那」
「私はもう二度と、失えないんです。絶対に繰り返せない。耐えられません、そんなこと。許せない」
「そっかぁ、そうだね旦那。今日はなんかちょっと、悲しくなっちゃってるんだね」
「リュウノスケを失いたくないんです」
「うん、旦那」
「リュウノスケも、私を想って下さっていますよね?」
「うん、戻ってきたか。うん。そりゃもう、ぞっこんにね! 俺には旦那が一番で唯一で全部! あんた以上にCOOLな人なんてどっこにもいやしないよ。旦那が俺のただ一人の共犯者で、師匠で、親で子どもで、親友で恋人なんだ」
「ならば、私の願いをききいれて下さいますか?」
「もちろん。俺にできることならなんだって」
「あなたのすべてを差し出せと言ったら?」
「そりゃ今更でしょ旦那。俺もう、旦那に全部あげてるよ」
そう答えたら旦那は満足げに息をついてにっこり笑って、覚えているのはそのあたりまで。
気付いたらこの水槽の中にいた。水の中でも苦しくないし、腹も空かない。多分旦那の魔術で色々されたんだろう。もう随分長い間こうしている気がするけど、することもないので寝てばかりいたから時間の感覚もなくなって、よくわからない。多分、今の俺は歳もとらないんじゃないだろうか。
旦那が俺の身体を好き勝手にするのは俺が旦那にあげた当然の権利だし、毎日旦那が見せてくれる「ショー」のおかげで退屈ってわけでもない。旦那がその手でつくりあげる死と恐怖と絶望は、いつだって俺を魅了して虜にする。ただ、水槽の向こうで繰り広げられるそれに参加できないのが残念で、血の色や匂い、艶やかな臓腑の隙間に腕を入れる感触なんかが恋しくてならなくなってきた頃に、この大量の赤い花が水中いっぱいに飾られた。
「血や臓物では水が濁ってリュウノスケの姿が見えなくなってしまうので、これで我慢して下さいね」と旦那は言う。花はどんどん増えていくし、海魔や魚たちはきっと俺がさみしくないようにで、あの巨大な淡水魚だって、いつかテレビで見たのを俺がでかくてかっこいい、と言ったのを覚えてくれていたからだろうから、旦那が一生懸命俺を愛でてくれているのはわかる。だけどそれと同じに、旦那が本当にこうしたかった相手は俺じゃないことも、わかっている。
水を隔ててこもって聞こえる悲鳴に目を細めながら、俺は向こう側で笑う旦那に向けて、音のない水中の拍手を送る。素晴らしくCOOLなアートが彼の手のなかで形づくられていくのに感嘆しながらも、ああやっぱり違うな、と思う。俺も旦那の隣りで、旦那と一緒にやりたいな。
旦那。
あのさ旦那。こんなとこでただ大人しく旦那のやること見てるだけなんてさ、そんなの俺じゃなくても出来ることだし、そんなのはもう、雨生龍之介じゃない。俺じゃないよ、旦那。俺はあんたと一緒に攫って犯して殺せる、一緒に笑いあえる、あんたの共犯者だよ。こんなとこにいたんじゃ一緒に楽しめない。旦那が悲しいときや落ち込んだときに慰めてもやれない。俺まだ旦那としたいことやりたいこと、山程あるんだ。こんなとこで飾られてるだけなんて、そんなの雨生龍之介でも、旦那のリュウノスケでもないはずだよ。俺は旦那が掴み損ねたあのひとじゃない。お願いだから俺を、リュウノスケを忘れちゃわないで。
彼女みたいに、焼かれさえしなければそれでいいなんて寂しいことを思わないでくれ。
水の中、声の届かない旦那に向けて俺はずっとそんなことを思っているけど、当然旦那は気付かない。おや、とか呑気に言いながら、血や肉片で汚れた水槽を丁寧に拭いている。旦那の手にする水色の子ども服がガラスの壁面を上下左右に動いて、その子自身の血で染まっていくのをふらふら漂いながら追っていたら、視界がひらけて、旦那の顔がすぐ近くに見えた。俺を見つめるそのひどく満足そうな、安心しきった表情に、まあいいか、という気になって俺も笑う。
旦那がこれで安心するんなら、しばらくはこのままでいい。
旦那の気が済むまで、好きにしていい。俺はここにいる。
まあ、それでもやっぱり、なるべく早く気付いてほしいけど。
いつか俺の我慢がきかなくなって、自分の爪か、あの大きな魚の粗い鱗か歯を借りて腹を裂き、水を濁らすその時までには、なんとか目ぇ覚ましてよね旦那。そしたらまた、そっちで一緒に遊ぼうよ。
俺は水中で大きく伸びをして、またうとうとと瞼を閉じかける。
視界の端では相変わらず、赤い花がその色を滲ませている。