龍之介の歩みはときおり踊るように跳ねた。
目立たず自然に飄々と人ごみをすり抜ける滑らかな歩みが、一瞬変調する。
たん、たん、たた、たん、と。
あれは何なのです、と彼の使い魔であり師であるキャスターが問う。
こう、と言ってその獣じみた長い爪の揃った大きな両手をたんたんと打ち鳴らし、拍子をとってみせた。
その思いがけなくあどけない姿に、龍之介は思わず噴き出してしまう。しかも彼はこの悪魔が、そうした仕草で怯える子どもをあやし宥め、同じ手でえぐり引き裂くのを知っている。龍之介の笑みは自然深まった。そして自身の足取りの微かな変化にさえ気付いたこの師と仰ぐ悪魔に感嘆し、また歓喜して、いつもの賞賛を送った。気付いたの旦那がはじめて、さっすが、COOLだ! と。それからにこにこ微笑んでこう答えた。「あれはね、線を避けてるんだ」
線。
たいていは、白い線。
チョークで引いたみたいなそれは街中だろうと建物の中だろうとどこにでも、いくつでも走っている。気付くのは俺一人だけで、他人には見えないらしい。旦那はどうかな? ほらあそこ、こっから見下ろせるあの、一番明るいところ。電気屋ね、その店の前。大型液晶テレビと、立ち止まってそれを見てる人間。その間の太い線。見える? 見えない。うーん、やっぱそうか。
ああ、それからその先の、道端に座り込む浮浪者を囲む線。今、俺らの横をはしゃぎながら、手を繋いでもつれ合うみたいに歩いてった女子高生グループと、すぐ後ろを歩いていた同じ制服の女の子の間の線。浮浪者が動くと線も一緒に動く。グループと一人ぼっち少女の間の線も動いて一定の距離を維持し続けてる。変だよね。なんであんなのが見えるんだろう。
線が見え始めたのは、たぶん姉ちゃんを殺してから。
蔵の中で散々泣き喚いて、汚いもの垂れ流してた姉ちゃんが、そのうち黙り込んで、さすがに死んだかなと思って覗き込んだ俺を、ちょっと驚くくらい静かな目で見上げて「龍之介、なんで近親相姦がタブーとされてるかわかる?」って言った。頭おかしくなちゃったかな、と思った。姉ちゃん俺に犯されたいの、今の姉ちゃんなら俺できるよって言って皮ごと剥き出しの腹を撫でてあげたら、泣き出した。そうじゃないの、って反吐で汚れた顔でしくしくと、いつもの、俺の心配ばかりしてる姉ちゃんの顔で普通に悲しそうに。
「龍之介、家族とセックスしたら駄目なんだよ。家族は殺したら駄目なんだよ。家族は、本当は、自分と、自分以外の、あわいにあるものなんだよ。境界線上のものには触っちゃ駄目。自分と自分以外の境界を侵したら駄目だよ。自分と世界をちゃんとはっきり、分けていてよ」
姉ちゃんが喉に血やいろいろを詰まらせながら、懸命に話すことが俺には全然理解できなくて、とりあえず駄目ってなんで? って訊いたら、悲しい目で俺を見上げて、ああそうだ、あのとき姉ちゃんの目は、まるきり身を投げ出す間際の草食動物みたいに血走りながら、とても優しかった。俺みたいな奴の姉として、俺の最初の獲物になるために生まれたような、それでも弟というだけで俺を無条件に愛してしまうほどに普通な、あんまり哀れで愚かで、気の毒な姉ちゃん。慈しみばかりの声で、姉ちゃんは最期に俺に言った。
「そんなふうじゃ龍之介、あんた、とても生きていかれないよ」
……でもまあほら、俺は生きてる。そもそも姉ちゃんが最期に言ったことなんか全然気にしてない。あんなのただの、痛みと死の恐怖で飽和しきった頭が混乱と悩乱の末に吐かせた、安っぽい、哲学にもならない思いつきにしか俺には思えない。心配してくれてたことだけは、ありがたいと思わないでも、ない、かなぁ? 線が見えるようになったのはその頃から。触るな、侵すな、と警告したものの意味がわからず首を傾げた俺に、姉ちゃんが命と引き換えにでもして、目視できるようにしてくれたのかもね。
最初はテレビだった。殺人や強盗や戦争のニュースを映すテレビと、それを眺める人の間にある線。なんだこれ、と見下ろして、それから覗き込んだ画面の向こうには放火された火事現場。消火を終えてもいまだ煙を立ち上らせている濡れた消し炭や崩れる真っ黒な柱、と、それを遠巻きに眺める野次馬の間にある、線。
なんだこれ?
屋外に出てみても線、線、線だらけ。アスファルトに、コンビニの床に、グラウンドに、線は流れ、波打ち、移動しながら、いくつでもどこにでも引かれている。
たぶん、多分だけどね。あれ国境なんじゃないかな。国っていうか、世界っていうか。あそこの大画面に映る飢饉のさまは勿論国ごと違うけど。ほらあのピンヒール履いたOLからしたら、数歩先にうずくまる、この冬さえ越せそうにもなさげなあの宿無し老人は中東よりも遠い存在なんだよ。彼女と老人の間には線がある。人種が違う、世界が違うと線の外延にいる女は思ってる。線のこちら側は安全地帯、把握できる自分の国。
俺のつくったアートと、それを眺める人間の間にも俺はそれを見つけることが出来る。
ブルーシートをかけられた死体と、警察、警察に押されても押されてもまだ群がる報道陣と、その後ろから腕を伸ばし、携帯のカメラを向ける野次馬たち。その間の線。俺はそれをもっと後ろのほうから見てた。俺の足元に線はなかった。それで、一生懸命背伸びしてカメラを持つ手を掲げる女の子に近づいて、ちょっと貸してって言ってそれを取り上げて、ブルーシートで包まれたまま運ばれていく死体を撮ってあげた。はい、撮れたよ。そう言って携帯を返した時の、彼女の上気した嬉しそうな顔ったらなかった。あそこにいる奴らに、後ろめたさなんかひとつもないんだ。だってあれは線の向こうの出来事だから。あいつらとは違う国の、全然何ひとつ関係のない死体だから。線のこちら側に踏み留まりながらその安全地帯から貪欲に腕を伸ばし、自国への土産にでもするみたいにあちら側の惨劇の上澄みを持ち帰ろうとする。ありがとう、と言って携帯を覗き込む女の子は普通に可愛かった。俺にもよく見せて、ここじゃ落ち着かないから、どこか静かなところで。誘えばやっぱり嬉しそうに笑って容易くついて来た。死体撮れてよかったね、と言ったら興奮したままの彼女は輝く頬で何度も頷いた。俺はにこにこ笑いながら、せめて恥じ入れ、と思っていた。その子の死体はまだ見つかってない。
だからさ、やっぱり、線なんかないんだ。ほんとは。
そこまで話して、龍之介はテーブルの向かいに座るキャスターににっこり微笑みかけてスプーンを皿に置いた。
「場所変えよっか旦那」
食べかけのドリアはまだ少し残っていたが、もういいや、と言って席を立つ。キャスターは現界していなかったから、テーブルには一人分の皿しかない。龍之介について行く前にキャスターはもう一度、その大きな目で、窓の下にいまだうずくまる浮浪者をちらりと見下ろした。老人を避けるように歩くたくさんの脚は見えても、彼のマスターの言う線などはやはり見えなかった。
会計を済ませる龍之介は、店員と自分の間に線のあるのを見つけて一瞬首を傾げかけ、すぐにああ、と納得する。龍之介が愛想のいい笑顔を作り、「明日市民ホールでやる舞台、俺出るんだ。よかったら観に来てよ」と言うと、このファミレス店員は目の前の、食事の最中ずっと独り言を続けていた「狂人」を「演技の練習をしていた劇団員」という認識に改める。めでたく彼の世界へ招き入れられた龍之介は両者の間の線が一瞬で消え去るのを見る。ありがとうございました、頑張ってください、と笑う店員に小さく手を振る龍之介の口だけが、ばっかじゃねーの、と告げる。こんな簡単に消せる線なら、最初から引いてんな。あの時の女も、こいつも、どいつもこいつも、線なんかに頼って、それで安全なところにいるつもりか。自分の理解の範疇におさまる、安心安全な国でも作ったつもりか? 追いついたキャスターを隣に、龍之介は店を後にする。
真冬の屋外に一歩踏み出すとき、龍之介の目は猫のように細められ、口元には作りものでない心からの笑みが浮かんでいる。線なんかない、と龍之介は弾む気持ちでそう思う。そんなものはない。ないのだ。龍之介は雑踏の中、まっすぐに歩き出した。すぐに足元に迫る誰のものかもわからない線。いつもなら、たたん、と避けるそれを、一瞬浮かせた脚で、けれど今日は構わず踏み締める。線の主が不意に胸騒ぎを覚え、顔を上げてあたりを見回すのに龍之介は目もくれず、前だけ向いてただ歩く。線なんかない。それを自分は知っている。そんな自分を、隣の悪魔だけが知っている。知ってくれている。嬉しくて楽しかった。だん、なぁー、と意味なく節をつけて呼びながら、龍之介はたん、たん、と淀みなく歩き続けた。線を踏み、蹴散らしながら、線、線、線ねぇ、と鼻で笑って体を屈め、指先で線を掬って唇を撫でる。するりと蛇のように一瞬かすめた薄い舌がその細い指先を舐めとった。歩みを止めないままの、楽しげで優雅に映る仕草に隣を歩むキャスターが笑みを深める。味しねー臭いもしねー、と龍之介が呟く。火葬のあとの、骨の味! 先ほどファミレスの窓から見下ろした電気屋の前に差し掛かっても龍之介の歩みは一瞬も滞らない。店先の大型テレビに映し出されるのは話題の冬木市連続猟奇殺人のニュース。それを眺める人の群れ。龍之介とキャスターの描くお話にみんな夢中だ。龍之介は胸を張り、テレビと人の間の線の上をまっすぐ突き進む。視界を遮られただけではない不快感と、源のわからない不安に突然襲われた人々は一様に顔を曇らせ、悠然と歩む龍之介を胡乱な表情で見送った。くっ、あは、と小さく喉の奥で笑って龍之介は歩みの速度を増していく。線なんか見もしないで、ただ自分の歩みたいようにまっすぐ、線、線、燃やした骨の味の、臭いの、最初っから死んでる、線、とだんだんに興奮で血の充ちていく頭で切れ切れに思いながら、ねぇよんなもん最初っから! と、大声あげて笑い出しそうになるのをこらえありもしない線の内側で安穏と弛緩していた群集を得体の知れない不安にどんどん突き落としながら、龍之介は雑踏をとうとう駆け抜け始める。たたたたた、たん、と。
「見てよ、旦那」
ああ見えないか、でも。
でも、そう、見えないのが正しいんだ。
旦那は俺がそう思ってるのを知ってる、それが俺は嬉しい。
「見なくていいよ、旦那」
ここから見下ろせるのはいつもどおりの汚い街とうじゃうじゃ集まる人間たち。
いつもの、愛しい獲物と楽しい夜の街だ。
繁華街の表通りに建つショッピングモールの屋上。
扉にはしっかりと鍵のかかった、一般客は本来入れないそこにキャスターを従えた龍之介は当然のように立って、子どものようにフェンスにしがみつき目の前に広がる夜景に歓声をあげていた。楽しそうなマスターの様子にキャスターもまた子を見守る母のような笑みを浮かべる。風が強く吹き荒ぶ冬の屋上、それでも温度を感じないキャスターは勿論、かつてない興奮に駆られどおしの龍之介もそんなもの気にもしないではしゃいでいる。この夜に。かれらの所有物のような夜の街に。
あっ登れる、と龍之介が声をあげ、キャスターの背後の給水槽の鉄梯子に駆け寄り弾みをつけて脚をかける。あっという間に登りきり、ますます強く体を押す風と更に高いところから夜景を見下ろす楽しさにあっははは、と高い声で龍之介が笑う。それをのんびりと見上げるキャスターの頭にふと、現界する際に得たこの国の言葉が過ぎった。からかうようなわざとらしい調子で、彼はそれをそのままマスターに投げかける。
「なんとかと煙は高いところに昇りたがるんですよ、リュウノスケ」
「じゃあ俺は煙だね」
雨生龍之介はー、煙であります! と敬礼するように手を振り上げ、弾む足取りで給水槽の縁ぎりぎりに立つ。
風に煽られたシャツの裾を翻しながら龍之介は幾分トーンを落とした声で旦那、と呼んで、そこからキャスターを見下ろした。
「旦那、俺はさ、線なんかないって知ってた。知ってたけど、踏まないようにしてた。踏むとあいつらは気付いて警戒するから……って、そんなふうに、言い訳みたいに思ってた。線はあるけど、ないんだ。引いたほうにはあるつもりでも、俺がないと思うならない。なくていいんだ。なのにさ、俺も結局は線を無意味に忌避して、振り回されてたんだよね。馬鹿みてぇ。切り裂いて開いて潰して、殺したくらいじゃ姉離れも出来ないもんなんだね。
だけど俺はもう怖くない。線はない。俺にはないから、そんなものはひとつもないんだ。引いたつもりの線の向こうで安心してる奴らを殺すのは楽だけど、でもそんなのばかりじゃ狩りはつまんねぇ。それを旦那が教えてくれたんだ。線を消すこと。それで与えられる恐怖のこと。その楽しさ。今度は、俺がみんなに教えてやるんだ。線なんかないって。そんなのは、お前らが勝手に引いてる無意味なものだって。見てるだけの奴なんか存在しないんだって。どんな不幸も苦痛も恐怖も絶望もみんな別の世界の話だってへらへら笑ってる奴らにさ、そんな卑屈になるなよって言ってあげなきゃ。どんなにつまらない、目立たない奴でもパーティに誘われない訳じゃない。高級車は持ってないから、俺は歩いてそいつらの家まで迎えに行く。君にだって、殺される価値も権利もあるんだって、教えてあげるんだ。もし線があるならそれはひとつだけ、大きな大きな丸い円、それだけ。外延に立って指咥えて見てんのは、可哀想に、ひとりぼっちの神様だけだ。俺たちはその哀れなマスかきチキン野郎ために、せめて面白いものを見せてやろう。見ているのは神ひとり。あとは大きな輪の中で、みんな当事者になって逃げ回れ。隅っこの奴らが線の縁でここは外だと勘違いして安堵して、つまはじきになんてならないよう、おれたちは隅々まで殺してまわろうね」
話すうちから楽しくなってきた龍之介は給水槽の上を歩き回り、派手な身振りを交えて時々くるりと回転しながら風に負けない、誰に憚ることもない大きな声で「さあ、殺そう!」とキャスターを誘う。龍之介の誰より尊敬する殺人の師はその姿を満足げに見上げる。
今こそ、龍之介の歩みは真実滑らかだった。龍之介が跳ねるのならそれはそうしたいからだった。足取りを弾ませるほど楽しくてたまらない、それ以外の理由など最早どこにもない。キャスターが最前龍之介の足取りを模してとった、たん、たん、という拍子は今や間を置かない盛大な拍手となってこのマスターの自由で軽やかな歩みを寿いだ。
「思うように進みなさいリュウノスケ。何物にもとらわれず、まっすぐに歩むのです。そう、走って…………踊って!」
がってんだー! と龍之介は声を張り上げ、とんっと片脚を軽く蹴り上げ跳ねるとそのまま両腕を拡げて落下した。一瞬の停滞ののち風が逆巻き、龍之介の細い前髪がふわりと広がって滑らかな額が夜空に向けて露わになる、寸前、どさりとキャスターの腕の中に彼の体はおさまった。龍之介を受け止めたキャスターが腕の中のマスターを見下ろし、美しかったです、と賞賛すると、その微笑みを見上げる彼もまた、落下の最中も浮かべ通しだった笑みを更に深めて、星ひとつ見えない暗い夜空を背後に背負う殺人の師にあんたもね、と言って讃え返した。あんたほど夜の似合って、吐き気のするほどうつくしい獣はいないよ、と。
「行きましょうか」
「うん」
軽く応じて龍之介がキャスターの腕から地面に降り立つ。片手だけを支えられて、まるでペアのダンスのおしまいのように、そのまま客席に向けて繋いだ手を高く掲げ、揃ってお辞儀でもするかのように。それでも実際、かれらの本番はここからだった。今から今こそ、盛大に幕を開けるのだ。龍之介がキャスターの手から離れ、と、とん、と数歩前に踊り出る。目の前には線などないどこまでも地続きの広い広い狩場が惜しげもなくこの二人に差し出されている。龍之介は目を輝かせ、興奮に身を震わせながら、神に愛されこの世に満ち満ちる五十億の退屈な豚共に彼自身の愛を込めて一声叫んだ。 「臆病者!」
そうしてゲラゲラ笑い合いながら、この享楽と自由と悪夢の権化のような二人は夜の街へと駆け出した。