僕は冗談で死ねと言ったことなどありません。軽々しく死ねなどと口にする
人間を、僕は心から軽蔑します。
葬儀屋に勤め
る僕は当然ですが、毎日人の死に
触れていました。仕事として接するうち、死を事務的ににしか扱えなくなる者は
たくさんいます。同僚や上司にもそういう人間はたくさんいました。僕自身も、周
囲からはそのように思われていたようです。滅多に表情を変えないことが、まわ
りには冷たく映るようでした。だけどさも悲しそうな表情を浮かべ、隙のない悔
やみの言葉を並べながら、より高い花や祭壇を勧める奴等なんかよりも、僕はきっと誰より真
剣に死と向き合っていたと思うのです。大勢の、心からの涙の中で送られる人も、誰
からも惜しまれずにただ燃やされる人も、結局行き着くところ
は同じなのです。ならば僕らは、僕らだけは、彼ら彼女らを誰より平等に
扱うべきだと思ったのです。それが葬儀を取り仕切る僕らの仕事なのだと。
僕に
は彼らの死に真摯に向き合った自信があります。彼らを亡くした人々に対して
もです。一度だけ例外はありましたが、それ以外は僕は、全ての死に平等で
した。大切な人を亡くした者の悲しみや喪失感が、
僕には理解できました。その苦しみを知ってたのです。それでも平等に、理性を失わず、自分の責務
を果たしてきました。僕はいつも真剣でした。だからこそ僕が死ね、と繰り
返し呟いていたのは、けして軽々しいものではなかったのです。死者とその家族た
ちに接するのと同じくらいに真剣で、本気だった。死ね、と何度も念じていました
。死ぬべきだ、死なねばならない、早く死ねと、いつも思っていたのです。
誰って、彼女をです。
あなたの妻だったあの人です。
あの人が死んだ日、あなたが真っ
赤に腫れた目でうちにやって来たあの日を僕は、一生忘れないでしょう。
僕の前
で震えながら、それでも取り繕おうとするあなたの涙の枷を外し、存分に泣かせ
てやって、慰めた僕に、あなたは最後にはありがとう、なんて弱々しく笑いかけ
ましたね。あの時僕は、
仕事ですからなんて言いましたが、そんなのは嘘です。平等な
んかじゃなかった。だって、他ならぬあなたです。なにより死んだのはあの、僕が死を
願ってやまなかった彼女だったんですから。僕は少し浮かれていたくらいです。
やっと死んでくれたと、笑いさえこみあげてきました。
ねえ、芭蕉さん。
僕は、あなたのことをずっとずっと昔から知ってたんです。名前だけなら、なん
て、大嘘です。気付きませんでしたか。あなたの書いたものは最初から、全部読
んでいました。全部です。
はじめてあなたの小説を読んだのは中学三年の頃で、
僕はそれで、進路を変えました。あなたの母校です。偶然だなんてあなたは言い
ましたが、馬鹿馬鹿しい。僕の家からあの高校がどれだけ遠いか、考えたことな
いでしょう。あなたに少しでも近付きたかったんです。あなたをほんの少しでも
理解できるなら、通学の不便さなんか全然苦じゃなかった。
芭蕉さん。あのね
え芭蕉さん。あんたの書く小説は、それくらい凄かったんです。僕が15年間で培っ
てきた考え方も生き方も哲学も感情さえも全て、あんたは変えてしまったんです
。僕はあんたの書く小説、言葉の一つ一つに惹かれて惹かれて、本当に、どう
しようもなかった。生きていけると思ったんです。同時に、これがなきゃ生きて
いけないとも思いました。だからこそあの女は死ぬべきだったんです。あの女。あん
たが愛した、あんたの妻だった女。あんたが心から愛して、愛して、あんたから
神の言葉を奪った女。
あんただってわかって
たでしょう。あんたがあの頃書いた小説、文章は、酷かった。昔のようなのもあ
るにはあったけど、あんたの言葉はほとんど力を失っていました。僕がどれだけ
失望したか、いいえ、あれは絶望だった。わかりますか?あんたはあの女との生
温い愛情のやり取りにうつつを抜かして、そのうえ生活を知ってしまった。あの
頃、僕はあんたの文章を読むたび暗いところに沈んでいくようだった。それはと
ても深くて、どこまでも底がないんだ。その絶望がわかりますか。
あなたは死んだ
、と僕は思うことにしました。葬儀屋に勤めはじめたのはその頃です。僕はあの
ころ、死についてばかり考えていました。死んだあなたの才能、僕の中で死んだあ
なた自身、自殺も考えました。でもあそこで働くことで、色々と、考えが変わっ
て、そしてあなたの小説が時々、ふと良くなり、それがあなたが長旅に出て、彼女
と一時的に離れた時に書かれたものだと気付いた時、僕の中のあなたは生き返ったの
です。いや、あなたの才能は死んでなんていなかった。あの女が、あなたの才能
を駄目にしていただけだったんです。あんただってわかってたでしょう。あれは
、あの女はいけない。悪だ。消えるべきだった。あ
れはあんたの才能を汚して潰して台無しにして、同時に僕を殺しかけていた。死
んでくれと願うのは、芭蕉さん、あれは僕の正当防衛でした。
いやそうじゃない
な。実際殺してこその正当防衛だ。僕は殺さなかった。彼女の死を切実に、それ
こそ真摯に願っていたけど、あれはあんたも知ってるとおり、病気で勝手に死んだ
んです。僕はただ祈っただけだ。あんたの信者のささやかな祈りだ。
芭蕉さん。
あの日、葬儀のあと、晴れ渡った空に彼女を燃やす煙が溶けていくのを、あ
なたはいつまでも、子供のように眺めていましたね。あの時僕が渡した花を覚え
ていますか。あなたが震える手で受けとって、その顔を埋めて泣いたあの花束は
、だから、弔いの花なんかじゃあ、なかった。あれは祝いの花でした。誕生日お
めでとうとでも言ってやりたいくらいの、僕の心からのお祝いの花でした。
ああ、もうこんな時間ですか。
冷えてきましたね。暖房をつけますか。あんた、さ
っきから震えていますけど。毛布は、いらないですか。そうですか。じゃあ話の
続きをしましょう。火葬のあとからです。
あれから、僕はここを訪れるようにな
りましたね。奥さんを亡くして、子供も親戚もいないあんたの面倒を見るためで
した。生活能力ゼロのジジイが野たれ死んだりしたら夢見が悪いから、なんて
言いましたが、それもあながち冗談じゃなかったでしょう。あんたは友人は無闇
に多い割に血縁者が全然いないし、それにあの頃のあんたは抜け殻みたいで、ほ
っといたら何もしないまま餓死でもしそうでしたから。
そんなことないってあん
た、馬鹿言わないでください。僕が初めて来た時だって冷蔵庫の中、みんな腐っ
てたじゃないですか。せっかくあの女が死んだのに、あんたまで死んだら元も子
もないでしょう。だから面倒をみていたんです。まずはあんたがあの女なしでも
生きていけるよう、優しくしてやって、はあ?何言ってんです、優しかったでし
ょうが。殴ったり蹴ったり、ああでもしなきゃあんた何も食べないし風呂にも入
らないし、多分本当に死んでましたよ。最初から言
ってるでしょう。僕は優しい男です。あんたの食事を作って食べさせて、身の回り
の世話をして、そしてあんたがまた書けるように促した。
なんでもいいからとに
かく書けと、僕は言いましたよね。そうじゃなきゃ生きていけませんよと。お金
の問題じゃなく気力の話です。それは事実ですが、だけど僕も生きていけないと
思っていました。あんたを目の前にしてあんたの言葉が聞けないなんて、生殺しも
いいところだ。だから書かせたんです。あんたが書けるよう、いつも細心の注意を払って
いました。知ってますか。ああ知ってる。それはよかった。
あんたが彼女を亡くして最初に書いた小説、あれを最初に読んだとき、僕は泣いたんです。
嬉しく
て涙がでた。知らなかったでしょう。あんたが見せてくれる前に、僕はあれを読
んでいました。あんたの部屋を掃除していて見つけたんです。
あれを書き終え、
机に突っ伏して眠るあんたの横で僕は、声を殺して泣いて、笑っていました。勝
った、と思いました。あの女からあんたの才能を、言葉をとり返したと思いまし
た。完全なる勝利だと感じて、僕はひどく、興奮した。
あんなふうになったのは初
めてで、それでわかったんです。あんたは孤独じゃなきゃいけない。あんた
は誰も愛しちゃいけないんです。あんたの感性、才
能は、誰の手も届かない、あんた一人だけの遠い遠い場所にあるんだ。そこ
には誰も、絶対に近付けない。だからあんたは彼女に、自分から近付いていったんでしょう?
許しません。許せるわけがない、そんなこと。馬鹿ですかあんた。あんたは、な
んにもわかっちゃいないんだ。自分の言葉がもつ影響力ってものをあんたは、一回
ちゃんと理解すべきです。
あれが、芭蕉さん、あれがどれだけ僕に影響して、
変えて、天国を見せて地獄に突き落として、おかしくさせて狂わせて狂わせて、
そういうの、あんた全然わかってないでしょう。自覚して下さい。あんたの書く
話がなきゃ僕はもう生きていけないんだ。あんたに小説を書かせるためなら僕はな
んだって出来るし、やれます。あの女がいた頃みたいな小説を読むのだっ
て、もう二度とごめんだ。あんたには昔のような、あの時のような小説をいつまで
も書いていてもらわなきゃ僕が困るんです。なのに、ああ芭蕉さん、僕の言いたいことがわか
りますか?
夕飯はもう少し我慢してください。それより、やっぱり暖房をつけ
ましょう。あんた顔が青いですよ。
いらないですか。何故ですか。寒いのじゃ、
ないからですか。
なんだ。わかってるじゃないです
か。
聞いて下さい芭蕉さん、なに耳塞いでるんです。
子供みたいな真似はやめて
下さい。ほら聞いて芭蕉さん、さよならです。もう二度とここには来ません。二
度と会いません。何故ってあんた、だから、知ってるんでしょう。
あんたの今書
いてる小説、なんです、あれ。酷いですよ。酷すぎます。あの女がいたころと、
おんなじじゃあないですか。いやそれより酷いかもしれない。あんなのあんたの作品
じゃない。あんな薄っぺらな話。美しいことには美しい、柔らかくて暖くて、優
しい。でも上の空だ。空っぽであんたがいない。僕が愛してやまない寂しさも静
けさもない。あれはゴミです。
芭蕉さんあんたは…ああまた、いい加減にして下
さい、うるさいな。そんなふうに耳を塞いで声をあげて、本当に子供ですか、あ
んた。黙りなさい。聞いて下さい芭蕉さん、聞けよ。
ああこれでいい。嫌です放
しません。放したらまた耳、塞ぐでしょう。大人しくしなさい。そんなに聞きた
くないなら沸かした湯でも注いでさしあげましょうか?黙って聞けよ。芭蕉さん、あん
た、僕のことが好きでしょう。愛してるんでしょう。誤魔化したって、無駄です。
あんたのあのクソみたいな文章をみればわかります。あんたは僕を愛してる。
息子のようにとでも思いましたか。それとも、ああもしかして、あの時のあれで
すか。たった一度だけで?いい歳をして気味が悪いな。よして下さい。あんなふう
に抱いたのは、まあ、悪かったと思っていますが。あの小説を読んで、何年かぶり
にあんた自身の言葉に触れて、あの女に、勝って、興奮していたんです。意味な
んかない。小説の書けないあんたに興味はないんですよ。あんたは誰も愛すなと
言ったでしょう。孤独でいなさい。その寂しい場所で、美しくて静かな神の言葉
を歌い続けなさい。さよならです芭蕉さん。スランプ気味のあんたの尻を叩いて
暮らしたこの何年かは、まあ、悪くはありませんでした。だけどあそこまで致命的なも
のを書かれたら、もう終いです。さようなら芭蕉さん。ほら放して下さい。この手
を、早く放して下さい。あんたが放して下さい。僕にはできない。またぶたれたいんですか。芭
蕉さん、僕はあんたの小説がなきゃ生きていけないと言ったでしょう。それで、
僕がいるとあんたは書けないんでしょう。
芭蕉さん。ねえ、どうしたらいいです
か。この手を放せないんです。どうすればいいんですか。
なああんたどうして、
僕なんか好きになったんですか。なんで。あんた
の小説だけで生きていけると思ってたのに。なんで、ああ、あんたの手は温かいな
。あの時もそうだった。芭蕉さん。僕はどうしたらいいんですか。
この手を放さないと生きていけないのに、この手がなければ死んでしまいそうな気が
するんだ。芭蕉さん。どうしてそうなんですか。なんで怒らないんですか。憎ん
で気味悪がって追い出してください。どうすればいいですか。僕は、芭蕉さん。
あんたをあんな寂しい、遠いところに一人置いておくくらいなら、もう小説なんか
書かなくったっていいとさえ、思う時があるよ。あんなに惹かれていたのに
。ああ会わなきゃよかった。あんたに会わなきゃこんなふうにならなかった。あんたの
手が温かいのなんて知らなきゃ、もう少し楽だったんだ。手を放してください。
あなたが放してください。僕にはもうわからなくなった。どうしたらいいですか
芭蕉さん。どうすれば楽になれますか。芭蕉さん。芭蕉、さん。僕は、あなたが
。
彼女は死によって復讐する
名前出てこないですけど曽良君。曽良君たら曽良君。
いきなりパラレルなのは黒スーツな細道にもえて黒スーツなら未亡人!喪主!だったからです。
すいません。
2008/5/22