仕事ばかりで遊ばないので彼はそのうち気が狂う
天国地獄天国地獄天国天国さて俺はなにをしているのだろうと唐突に思いあたっ
て首を傾げるその間にも天国地獄地獄地獄地獄天国、俺の口は澱みなく動き死者
の行き先をふり分けて行く。天国地獄天国地獄地獄地獄地獄ええーげばっ
嘔吐した気がしたけど机の上はきれいなまま真っ白い紙の束が頭をぶっつけたくなるほ
どに真四角にきちんと、詰まれている。凶器じみた書類の山を俺はぼんやり眺め
てそのうちまた次の死者がやってくる。はい次の方。
「はい、次の方」
地獄地獄天国。鬼男君は最近俺を叱らない。俺が叱られるようなことをせず仕事
に専念し且つきわめて迅速にこなしているからだ。鬼男君は「はい次の方」しか言わない
。最近俺はそれしか聞いてない。天国地獄地獄地獄天国。
昔はもっと話していた気がする。俺は無駄口ばかり叩いてたし彼はそれにいちい
ち答えてくれていて、そうだこの子って意外とよく喋って意外と辛辣なんだった
。
大人しく仕事をこなす俺に鬼男君は怒鳴ることも苛立つこともなくましてや爪
を突き立てることも、なく、表情を崩さず俺の斜め前で手元の書類に目を落とし
はい次の方次の、次の…俺はまた吐きそうになる。常に気持ち悪くて頻繁になに
かせりあがるものを感じるのに実際に吐くことはない。いっそ吐いてしまいたい
ので俺は胃液をぶちまける夢想を繰り返している。天国天国天国地獄げえええび
しゃり。机はきれいなまま。天国地獄。
昔は鬼男君によく叱られていた気がする。昔は仕事をさぼりたくて、やりたくな
くてしょうがなかった気がする。今考えれば俺は若かったのだ。天国と地獄に死
者をふり分けるのが、本当にしんどくてならなかった。
特に苦痛だったのが地獄行きの奴等の一生
を見ることで、あいつらが些細なこととして記憶に止めていないことも辛
すぎて忘れていることも俺は全てを見なければならず、そうして見てみると
やはりというか、人というものに生まれつきの悪人なんてのはいないらしく、
それでもどうしたって地獄に送らねばならない俺はその度どっと疲れてしまうの
だった。
地獄行きを決
定づける悪というのは実は環境のせいだったりタイミングのせいだったり、引きず
り続けた過去のせいだったりするのだが、それでもそれを犯したのは結局そいつだし、例え「
誰々に強制されて」とか言っても最終的にそれをやったのはそいつの意思なのだ
。だから俺がそいつに可哀相だとかなんとかしてやりたいとか、そんな感情を持
ったとしても地獄行きは変わらない。どんなに哀れに思っても俺はそいつが地獄
行きだということも確信している。それが閻魔大王というものだ。
けどさあ、と俺は口を開く。
けど根っからの悪人なんていないわけだよ鬼男君。俺は天国地獄地獄地獄
と宣告しながら、そんなふうに愚痴っていた過去を思い出す。そんな人間いないんだよ鬼男
君。
ああこの子はあの時なんて言ったんだっけな。何か色々と理屈をこねて、俺を
なだめにかかってきた気がする。溜め息をついてそうは言いますが大王…ああ多分こ
んな感じ。
そうは言いますが大王彼らは実際に悪業を積んでしまってるんです天国行きの死
者だって悪を思い付くこともあったでしょうが思うのと実際行動に移すのには大
きな…云々。
じゃあ全員天国行きにでもしますかええ?と投げやりな口調ながらも脅す
ように爪を立てて言うのだって、全くもって正論だった。それこそ欠伸が出そう
なくらい正しいと思いながら、言われなくてもわかってるってそんなん鬼男君頭固
いなァ、と言いながら、それでも俺はこの子に何度も問い掛けた。
そうは言いま
すが大王、何度も言うように大王…退屈な正論は他の奴等からも耳が腐るほど聞
かされてきたが、俺は鬼男君の諭すような口調と声が好きだったのだ。
なによりも、そんな教科書文句を諳じながら、彼が悲しそうな、やり切れないような眼をす
るのがとても好きだった。正論と、それと相反する感情に乱される彼の心が健気
で可愛らしかった。
そんな質問を投げ掛けながらもとっくに諦めてしま
ってる俺と違い、彼の苦しみはとても健全で、俺はその度自己嫌悪に陥ったり
していたけれど、それでもそんな彼を見ると新鮮ないい気持ちになって、優しくしたいなあ、
と漠然と思ったりしていた。彼のその眼を見ると俺はいつだって、誰かに優しくしたい気持
ちになった。
俺は死者の一生を余さず眺めるが、鬼男君
が見るのは彼らの一生を紙一枚にまとめた書類だけ
である。それでも彼の悲しそうで悔しそうな瞳は、明らかに俺なんかよりずっと
真摯に死者を憐れみ自分の無力さを嘆いているものだった。優しい子なのだ。
と、いうようなことを俺が言うと眉を寄せ、そんなことありません、と言ってそ
れから小さな声で「僕には何もできないし」と呟くのは、愛しくさえあった。
そんな時もあったのだ、確かに。
天国地獄天国地獄天国地獄地獄地獄、今は地獄行きの死者のグロテスクなくらい
悲しい過去や人殺しのどうしようもない、やりきれない事情なんかをどれだけ追
体験しても俺の心はぴくりとも動かない。こいつは可哀相か?と聞かれたら頷く
が、可哀相だと思うか?と聞かれたら首を傾げるだろう。可哀相なんだろうね、
多分。
地獄地獄地獄地獄天国地獄。最近俺は時々自分が何をやってるのかわからなくな
る。急に、何をやっていたのかわからなくなって目が覚めるような感覚に陥ってしかし
口は変わらず天国地獄と動き続けて、成程これが流れ作業というやつなのだな、と思ったり
何も思わなかったりした。流れ作業…単純作業?ずっと昔に食堂にいた
下っ端の料理人がインゲンのさや剥きとかエビの殻剥きだとかを長時間続けてると自分が
今何をしてるのかわからなります頭おかしくなりそうです大王早く出世したいです俺、
とかなんとか言っていて(そういえば最近彼を見ない)、俺のこの無感動さ無感覚さは
まさしくそれであるからやはりこの仕事は俺にとってもうさや剥き・殻剥きなのだな、と思ったり、
思わなかったり、した。あー天国地獄天国天国地獄天国。
なら鬼男君はどうだろう?最近俺は
愚痴をこぼさないからわからない。鬼男君の顔を正面から見ることもそういえばない。
それでも同じ時間を同じ場所で過ごしてきた俺には、彼も俺と同じないし似たような
状態であろうことがなんとなく感じられる。はい次の方。
俺の目の前でまっすぐ姿勢よく立ち、澱みなくよく通る声で「次の方」を繰
り返す鬼男君は機械のようにさえ見える。地獄地獄地獄天国、ならば俺だって機
械だ。最近俺はこう思う。俺はシステムだ。天国地獄天国地獄。死者の善悪を事
務的に秤にかけ単純作業として天国地獄に送り込む閻魔大王というシステム。今
の俺には憐れみも疲れも苦痛も自己嫌悪もない。良いこと良いこと、楽になって万々歳
なんて、そう思う感情すらもはやない。この境地に至って俺はようやく閻魔として完成
する。天国地獄天国地獄天国地獄地獄地獄、ただ吐き気だけ
が常に常に常に…
「大王」
ふと、顔をあげると鬼男君が目を見開いて俺を見ている。彼が俺を呼ぶのも彼の
こんな顔を見るのも本当に久し振りなので俺もびっくりする。
鬼男君は固い表情で俺の腕を凝視していて、なんだろうと思ったら俺の左腕が
きれいさっぱり無くなっていた。
なにこれ、と呟いた俺に鬼男君は冷静な声で「ああ、やっとですか」と言い、外
で並ぶ死者たちに今日はこれでお終いですと事務的に告げ扉を閉めた。部屋に二
人きりになると、鬼男君は感情の読めない目でお疲れ様です大王あなたの仕事は
終わりましたと澱みなく言った。そう言った時には右腕も消えていた。
「閻魔交替の話は随分前から出ていました。仕事に支障をきたさないよう、あな
たにだけは知らされなかったのです。丁度いい、もともとあなたは閻魔に向いて
いなかった」
鬼男君は俺に近付き、座ったまま立ち上がれない俺を見下ろした。俺の足先が消
えていたのだ。だけど俺はそんなことより、鬼男君の表情になんの感情も浮かばない
ことのほうが気にかかってしょうがない。鬼男君、と呼び掛けた俺を無視して鬼
男君は無表情で口を開く。
「閻魔大王の仕事は死者を裁いて天国行きか地獄行きかを宣告することです。地
獄行きの死者を哀れんだり、悪の定義だのについて考えるあなたは、閻魔として壊
れていた。これまでよく続いたものだと思います。もういい頃合だ。あなたは消
え輪廻の輪に戻るでしょう」
鬼男君の冷たい調子の言葉に俺は、うん?と思う。確かに昔はそうだったけど、今
は閻魔大王(というシステム?)として仕事をこなしていたつもりだ。大体昔の哀れ
みとかだって表面のほうだけで、心の奥では諦めていた。辛かったのはむしろ。
「ちなみに大王の仕事は僕が引き継ぐことになっています」
「君が?鬼男君が閻魔大王になるの?」
「そうなりますね。おかしいと思いますか」
「いやいいと思うよ」
今の鬼男君ならやれるやれる、と俺は笑うが表面上でも笑顔を作るのは
久しぶりなので妙な具合に歪んでしまった気がした。それでもその顔のまま
適任なんじゃない、と言うと鬼男君はやっぱり変わらない無表情のまま、何のつもり
ですかそれ、と言った。笑えないのに笑うのは難しい。
閻魔として完成した俺がそうであるように、鬼男君の感情のなさは閻魔としては
とても都合のいいものだ。
だけれど完成形の俺は無感動
ながらも惜しいなあ、と思っている。鬼男君ってあんなにいい子だったのに。
短気で言葉が厳しいけど思いやりのある優しい子だったのに。
なんだか勿体ない、と思う俺はきっと昔なら淋しくて悲しかった。
淋しくて悲しくて悔しくてこんなとこで俺なんかの秘書をやってたばかりに
あのうつくしい瞳を、声を、心を、失ってしまった彼に申し訳なくて、
多分泣いていただろう。だって俺は今でさえ少し死にたい。
「馬鹿にしてるのかもしれませんが、僕は正当な人事だと思っています」
そう言いながら無表情のまま俺を見つめる鬼男君を俺は見つめる。
そして笑みにならない醜悪な表情、とも呼べないそれを顔に張りつかせたままでいる。
俺は死にたい消えたい、とうっすらと、ぼんやりと、漠然と思って、そうして
脚も腕も消え、残った上半身は皮膚の表面からゆっくりと溶けていく、そんな
己の状態にやはりうすらぼんやりと漠然と、安堵していた。
最期に見るのは鬼男君でいいのだけど、こんな鬼男君をずっと見ているのは苦痛だった。
苦痛?
「正しい罰だと思っています」
俺は自分の内に生じた感覚に気をとられて、鬼男君の言葉が頭に届くまでに
少し時間がかかった。苦痛?苦痛……罰?なんの。俺は鬼男君を見つめる。
鬼男君も俺を見つめている。その目に感情はこもらない。けれど罰と言って
閉じた口を、彼は何故だか強く噛みしめている。唇が震え血が滲む。俺は思わず
え、と声を出す。
「あなたが狂っていくのをただ黙って見ていた僕に、これは相応しい罰なんです」
そう言った鬼男君の顔が、一瞬だけ、泣き出しそうに歪んだ。
俺は声も出ない。追いつかない頭のどこかで、嘘だろう、という言葉が浮かんだ。
息が詰まりそうだ。遠のきかけていた吐き気が喉元に迫る。
鬼男君は冷静な表情と綺麗に伸びた姿勢のまま、時々呼吸が
出来なくなったみたいに急に声を詰まらせたりしながら、
あなたは閻魔大王になんて本当に向いていなかった、と言った。
「あなたは閻魔として壊れてたけど、だけどだからって、あなたの心を壊
すべきじゃなかった。あなたからどんどん表情がなくなっていくのが、
僕には見てられなかった。
だけどそれであなたが楽になるのなら、
それもいいかと思ってたんです。大王、僕はあの頃、本
当の悪人なんかいないと話すあなたを見るのが苦しくて、本当に苦しくて、
どうしようもなかった」
なあ、嘘だろう。
俺は声も出せないまま呆然とそれだけを思う。
俺がこんなになってるのに、この子がこんなにこんななのって、そんなの
嘘だろう。鬼男君は固い表情のくせに声を震わせて、それがあの頃と同じだから俺はもう
彼の目を見ることが出来ない。鬼男君は変わってなんかいなかった。俺に
つられて、俺に合わせているだけだった。なんて、そんなの、嘘だ。そんなの。
そんなのは。
「可哀想、だった」
だってあんたは、閻魔として弱すぎた。
そう言う
鬼男君の瞳があの時と同じで俺は絶望した。
そして俺は絶望したことに気がついて恐怖した。俺の体はどんどんどんどん
溶けて薄れて消えていく。身体の自由はすでになく彼の悲しく優しい瞳から
目を逸らすことができない。もう何もできない。
「死者なんてどうでもよかったんです。僕は、ただあなたを見るのが悲しかった」
だから僕は優しくなんかないんです。
鬼男君は無表情のままそう言って、だけど時折、溢れそうになる感情
を耐えるみたいに唇を噛みしめる。俺はそれから目を逸らすこともできないまま
殺したはずの感覚と感情に嬲られ犯されている。
苦痛と絶望と恐怖と焦燥と悲しみと深くとても深く激しい悲しみと強い嘔吐感に襲われ、
喉元に迫る熱い塊を吐きだしたらそれは慟哭となって俺の目と口から溢れ出した。
俺は
悲しい。俺は苦しい。俺は恐ろしい。俺は、俺は…本当は辛かった。本当はずっと泣きたかった。
こうやって馬鹿みたいに泣き喚いてしまいたかった。
「こんなことしたくない」と投げ出してしまいたかった。そして恐らくそうすべきだったのだ。
だって鬼男君はこんなに優しいのに。
この仕事が辛いのなんて当然で、きっとそれだって仕事のうちだった。
それを放棄してたから閻魔を降ろされた。システムだなんだのとほざいて楽を
しようとしたから交代させられた。だから俺は消えていく。
餓鬼のように泣き出した俺に鬼男くんは虚を突かれたような顔をして、そしてあの頃と同じ
色と温度の感じられる声で「大王」なんて呼んだりするから俺はまた一層強い悲しみに襲われ
頭がおかしくなりそうになる。
鬼男君は優しい子なのに。こんなに俺を思ってくれた子他にいないのに。
それなのに、俺はこの子に閻魔を押し付けて消えてしまう。
大王と鬼男君が俺を呼ぶ声を聞きながら、消えたくないと俺は叫ぶ。
けれど俺の声はもう空気を震わせない。なにも届かない。伝えられない。
消えたくない。凄まじい焦りとかなしみの中で俺は思う。
消えたくない。祈りよりも切実に願う。
消えたくない。消えたくない消えたくない、消さないでくれ。なあ、俺がやるから。
サボらないし、ちゃんと仕事をこなすし、死者を裁くあの重さも
彼らを哀れむ苦痛も全部、仕事のうちだというなら最後までちゃんと考えて、向き合いもするから、
お願いだから、この子にそんなの押し付けないであげてよ。あれは辛いんだ。本当はすごく、気がおかし
くなるくらいに辛いんだよ。なあこの子には、鬼男君にだけには、そんなの。
声も出ないまま、ただみっともなく泣きじゃくるだけの俺に鬼男君がふと、微笑んだ。
そうだこの子はこんな顔もするんだったと思いながら、俺は悲しくて堪らない。
鬼男君になにか言いたいのに声は出ず視界もそろそろ
薄れかけている。
泣くことしかできない俺に鬼男君は微笑んだまま、いつもの澱みないよく通る声で「お疲れ
様です大王」と言い、まっすぐに頭を下げた。「もう、眠っていてもいいんです」
そうして昔より少しだけぎこちなく笑う鬼男君を最後に俺の視界は暗く閉ざされ、
何も聞こえなくなり、悲しみだけに満たされた俺は悲しみそのもののようになり、そして
そうやって思考も心も感情もなにもかもが消え去った。俺が終わる。(消えたくない)(消えたく
ない)(ああこれが俺の罰だ)
end
閻魔isヒロインという衝動に突き動かされるまま駆け抜けた
テスト前夜(を修正)
20080812