死ぬ前のことは忘れてしまった。ただごくたまに、自分の首筋に鋭い歯がつきささる感覚が 、亡霊のように通り過ぎることがある。 今の僕には多分それが最初の記憶だ。僕自身すでに亡霊 のようなものだけど。
僕を殺して自身の血を飲みこませた男の顔も忘れてしまった。何十年か一緒に暮らし たけれど、いつの間にかいなくなっていた。彼はどうしたんでしたっけと呟いたら「やだ 曽良さんたら一緒に殺したじゃないの!」と甘ったるい少女の声で笑ったあの子も、そ ういえばいない。死んだあとの記憶も最近じゃあやふやだ。

もう何年も血を飲んでいなかった。
外のあかりの差しこまない、この廃墟に住みついたのはもう少し前だった気がするが、どうだ ったか。どうでもいいが。
町から外れたこんな場所に人は来ない。頭と体はだいぶ弱っ ているが、聖水をふりかける手も、祈りの言葉を吐く口も、死人のつめたい血を飲ませよう とする賢しい人も同胞もやってはこないから、僕はいつまでも生きつづける。生きたい わけではないが特に死にたいとも思わなかった。そのうち死ぬだろうとなんとなく思い ながら、人としての生をとっくに終えていた僕にそんな自然な死がやってくるはずもな いことはわかっていた。なにかをしたいと思わなかった。なにもしたくないとさえ思わ なかった。僕はなにも考えないし感情を動かさなかった。闇に同化したようだと、少し だけ思った。湿った暗闇に生える植物のように生きていた。



ある日の午後、窓の外で声がきこえた。鼻歌だ。暗い森の中(それも僕のような化け物の住む森 だ)で歌うにはあんまり呑気で明るすぎるように思った。人の滅多に入ってこない森で も通り抜けに使う人間はたまにいて、しかしその道をここまで外れてやって来るものは 初めてだった。
鼻歌はどんどん近付いてくる。それにしても下手糞だ。同じ旋律を繰り 返しているようだが、毎回どこか音を違えるので、最初わからなかった。 なんとなく窓の傍に立つ。鬱蒼として陽の差しこまない木々の間にちらりと人影 がみえ、鼻歌がやんだ。かわりに同じくらい呑気な声で「暗いなあ」と言う声が届い た。「昼間なのに何もみえない、なんか怖いし」
じゃあ帰ればいいのに、と僕は思った。男はまだ近づいてくる。

その時、とても強い風がふいた。枝がしなり葉がゆれて、きれぎれの光が森に少しの間 さしこんだ。声の主にもそれは降りかかった。模様のような光を顔や体にまとわせて、 それは眩しそうに目をすがめ歓声をあげた。緑の着物をきた中年の、くたびれた男が、ち らちらする光に微笑むのが見えた。かすかな光でも僕の目は痛み、たまらず床に視線をおと した。そのとき男が、それを言った。

「         」

思わず目を上げた。男の姿はもう闇の中に隠れてしまっていた。気づくと僕は埃ま みれの窓枠を強く握りしめ、ガラスに額がつくほど顔を近づけ外を凝視していた。そし て何故か急に、すさまじい喉の渇きを思い出した。冷たいはずの血が熱をもったように体 中をめぐりはじめる。音が聞こえる。
男の言葉はさまざまな情景を呼び起こした。それは緑の葉に反射するまぶしさだった。 海の波間にちらばり揺れ続けるものだった。夏の空気に溶け込む金色だった。 窓から差し込み、ガラスを通して床を暖 める午後の陽だった。最後に。
人としてあっ た最後の日に、人をやめると決めたあの日に、見納めにと見上げた朝日だった。 人であった頃の光の記憶が唐突によみがえり、それは僕を苦しめた。それでも僕は かさつく口の中で、声を震わせながら男のさっきの言葉を呟いた。男のような歌 うような?笑うような?声は出ず、それでも、それを口にするたび僕は笑いだしそうな 気持になった。同時に泣きたくもあった。忘れ去っていた感覚に体がついていかなくて 苦しかった。

男は何ごともなかったかのように背をむけ、もときた道をかえりはじめた。僕がほとん ど呆然とその背中を見つめていると、男がふとたちどまり、僕の名前を呼んだ。あの声 で。瞬間息がつまった。
けれど、男は頭上をみあげていて、みえないなあ全然、などと続けて呟いたので、僕は 自分の勘違いに気づいた。空だ。下手な鼻歌は少しずつ遠ざかって、しばらくすると聞 こえなくなった。それでも僕はしばらくその場から動けずにいた。そして男の声と言葉 を、なんども思いかえしていた。

そのうち何年かぶりの光に目が耐えかねて、ひどく痛みはじめた。 目を強くつむりその場にしゃがみこんだけれど、瞼の裏の日の光と、男の影がいつまでたっても 消えなかった。喉が乾いて、いつからか舌が自分のものでないようになっている。 痛みがやわらいだころ、僕は暗く湿った床に仰向けで寝転がり、 暗い天井を眺めた。僕を守る暗闇を見上げながら、男の着物の緑が残像のように 視界の中をただよっていた。干からびた舌を無理矢理動かして呟くのは男の言葉。
「あきのひ、の…」
ああ次はなんだっけ?一度で覚えたように思うけど、 僕の口から洩れる言葉は男のものと全く違って聞こえる から、少し不安だ。ぼやけた脳味噌ではよくわからない。 ふと部屋の暗闇が流れだしたように見えた。 僕は床に倒れたまま、頭にあたる、少し腐った木の柔らかさを感じながら、 夜になったら、と考えた。

夜が来て闇がおりたら、村に行き、家畜の血をもらおう。
この渇きがおさまったら、あの男を探そう。 そしてさっきの言葉をもう一度聞かせてもらおう。 そのあとのことはまた、それから考えよう。

錆ついたような頭を動かし考えを巡らせながら、僕は本物の夜を待つ。
外はまだ明るい。








百年後の夜明け空









元ネタはヴァンパイアにインタビューするアレです。
20081022