満月の夜は嫌いだ。体がひどく痛んで立っていられなくなる。四つん這いの体を 支える腕が震えて、喉の奥から咆哮が溢れる。そしてそれきり何もわからなくな る。

次の朝はたいてい、曽良君が私の上に乗っている。 我にかえった時 目は開いていて、なにか を大声でずっと叫んでいたように喉が痛い。 曽良君は私にのしかかって、いつもの白 い顔で私を見下ろしている。曽良君のが突っ込まれてる時もあるし、ただ体重を かけて押さえ付けられてるだけの時もある。曽良君の顔に窓から入る 明るい朝日がさして、いつも以上に真っ白に見える。

こうなったのは前に山で野犬に襲われてからだから、多分あれは野犬じゃなかっ たのだろう。満月が近付くと体が変に熱っぽくなって、満月の晩には、その熱を 腹から吐き出すように私は吠える。腕に獣の毛が一気に生え揃うのを、意識がな くなる寸前に見たことがある。

朝気がつくと曽良君が私に乗っていて私は自分の口に血の生臭さを感じる。そ して腹が満ちている。

「またやったんですか」
と、曽良君が言う。少しは我慢というものを覚えたらどうですかまったく後始末 する僕の身にもなって下さいよ昨日でいったい何人の人間があなたの飢えの犠牲 に、あーあーあーあーあー。

耳を塞いで大声をあげる私を曽良君は黙って見ている。 それでもやめなかったら喉がすごく痛くなって、涙が出そうになる。 やめて曽良君、ごめんなさいごめんなさ い。ごめんなさい。謝るから、お願いだから、もう。
掠れる声で謝り続けると、曽良君は「仕様のない人ですね」 と言って私を抱きしめた。 泣きやまない子どもにするように、震えのどうしても 止まらない背中を大きな手で撫でてくれる。曽良君の体からは 汗と血と冷たい泥の匂いがする。仕様のない人だ、 もう一度そう言ってため息をつく曽良君は、だけどそんなに機嫌が悪い わけじゃなさそうだから、私はぼんやりと嬉しくなる。

「おとなしくしていて下さい」

満月の晩には縛られて畳の上に転がされる。
「外に出ないように、もう誰も食べ ないように」
私のあーあーが始まる前に曽良君は部屋を出て行く。私は黙って熱を持ち出す体 に耐える。訳のわからなくなる夜が明けて朝になる頃、曽良君の重さや熱を感じ る時には、縄は切れて放ってある。曽良君がやってくれたのか、獣になって たらしい私が自分でやったのかはわからない。
満月の晩だけだったのが満月の日になり満月の数日前からになり、気付いたら私は この部屋に閉じ込められていた。曽良君は私のためだと言うし、私も知らないう ちに人を襲うのが嫌だから、それでいいと思った。

朝一番に曽良君の顔、朝食昼食夕食を曽良君がもってきてくれて一緒に 食べて、下らない話や俳句の話をしたりする。夜には縛られ一緒に眠る。 満月の夜には曽良君が障子の前できれいに正座して、私の苦しみ悶える様を あの静かな目でじっと見ている、のを見ながら気を失う。 朝がきて口の中に血の味、胸がむかついて 腹が満ち曽良君が溜息をつく。ああまたですか。私はそっと耳をふさぐ。



いつからこうなのだろう。いつからこんな生活を続けているのだろう。 随分長い間外に出てないから、よくわからなくなった。 いつか一緒に旅をしていた、あの頃と変わらない美しい顔をして曽良君は 私を罵り殴って、俳句をけなし、褒めて、一緒に眠り、時々抱き合う。 あの頃と何が違うのだろう、そう思うのは間違ってる。それくらいはわかる。

まだまだ暗い夜明け前、私ははじめて、獣のままで意識を取り戻した。 長い毛に覆われた体には縄がしっかりと食い込んで、身動き一つ取れない。 奇妙にいびつな視界で部屋をさぐると、灯りもついていない暗い部屋の隅、 曽良君の白い横顔が変に鮮やかにうつった。
血の匂いがしている。部屋の暗い角にしゃがみこんで、曽良君は 見つめる私に気づかないまま、盥の上に腕をかざしている。 白い腕からは血が溢れているらしい。暗い中でも私の目は それをしっかりと捉えることが出来た。曽良君は呻き声ひとつ あげずに血を流している。

曽良君、と言ったつもりの声は獣の唸り声にしか聞こえない。 はいはいそう急かさないで下さいとあやすように言って、 振り返った曽良君は、血の気の失せた真っ白い顔に 見たこともないような美しい笑みを浮かべている。 そして盥を抱えて立ち上がり、近づくと、私の口に盥の中身を流しこんだ。 途端に血の味と生臭い匂いが溢れ、吐きそうになるはずなのに、私は まちかねたようにそれを飲み込んでしまう。腹があたたかく満たされていく。

「なんてあさましい、芭蕉さん、そうまでして生きたいのですね」

曽良君は笑顔だ。私の喉は鳴り続ける。曽良君の血をほとんど必死で 味わい飲みつくしながら、 ああこの子はきれいな子だったんだよなあと、 痛みだした頭の片隅で思った。彼のこんなあからさまに 嬉しそうな顔は初めて見るのだ。

「みにくい、おそろしい、おぞましい、あさましい、そんなみじめな化け物になりさがって、 あなたは生き続けるのですね、僕の血で、肉で、」

曽良君は安堵している。歓喜している。私は獣の目でそれを見上げる。

「それでいい。そうありなさい。そのままでずっと、ここにいなさい」

喉奥で溢れた血がごぼごぼ音を立てて息ができない。 曽良君が私の背中を、毛並を整えるようになでて一息つくと、眠たくなった。 曽良君が「眠りなさい」と優しい声で言う。 あやすようになでる手を心地よく 感じながら、私はふと涙がにじんでくるのを感じた。
罪悪感と餓えと縄で私をこの部屋に閉じ込めて、 私の不死の体にもう置いて行かれないと安堵している、そんなふうにしてやっと あんなふうに笑える彼が悲しかった。 あんなに血を流して、ようやく安心したように微笑む彼が可哀想だった。 飼われている自分よりよっぽど憐れだと思った。
だけど気持ちが悪いとも、思った。少しだけなら憎くもあった。

「…ひとでなし」

呟いた言葉は獣の声だったのに、 曽良君の手はびくりと強張った。大丈夫、そういうつもりで 喉を鳴らす。大丈夫、君だけに言ったのではない。








飼育の部屋









ぐっだぐだ
20081106