頭が痛い。
ということもあり、芭蕉さんがみっともなくはしゃいでるのに本気で苛々したので
いつもどおり頬を張って蹴り飛ばす。なんでだの意味わかんないだの、酷い、だの
と喚いて、小汚ない
人形に涙を落としながら弟子が酷いよ、と訴えるのにまた目眩がしそうなくらい
腹が立った。頭がぐらぐらしている。ここは往来だ。はしゃいだり泣き喚いたりする芭蕉さんを見て皆が
笑っていた。
いい加減にして下さいみっともない、と言って芭蕉さんのすぐ目の前に立つと、
背後の通行人たちが身をのりだす気配がした。いい年したおっさんが
泣きながら人形に縋る姿が、彼らにはそれはそれは面白おかしいものに映るら
しかったがそんなに娯楽に飢えた生活ならいっそ死ね。苛々する。頭が痛くて
足元がふらつきそうだ。僕の正面では
湯屋から出て来た客と番頭まで顔をだして、芭蕉さんの背中を指差し笑っている
。まあ当然の反応だろうなと思って視線をやると、何故か怯えたように表情を強
張らせた。僕を見上げた芭蕉さんまでもが顔を青褪めさせ、曽良君ごめん謝るか
ら堪忍して、と言って大人しくなった。今自分はどういう顔をしているのだろう
。静かになった芭蕉さんはそれでも人形を両手でしっかりと抱え、涙のあとの残
る汚ならしい顔で俯いているので、左右や背後の通行人たちはまだ眉を寄せたり
、嘲笑しながら彼を眺めている。それ以外は目をそらし足早に通りすぎていく。
苛々した。
(お前らが笑うな)
この馬鹿でみっともなくて傍迷惑で恥ずかしい人がしかし、どれだけ美しい言葉を
その口で生むのか、その心がどんなに、とかそんなこと何一つ知らないくせにそ
んなふうに笑うな。お前らのなかの誰一人だって、この人を蔑むことなんて出来
やしない。出来るはずがない、何も知らないくせに。大声でそう叫んでやりたか
った。彼の神の言葉を、彼の優れているところをこいつらに一つ一つ教えてやり
たい。そんな思いで視線を巡らすと、まわり人間は笑いを引っ込め退散しはじめ
たので、僕は黙って芭蕉さんの手をとった。ほら早く、と促して、ようやく芭蕉
さんは立ち上がる。着崩れた着物の泥を乱暴にはたき落としてやるとまた、自分
で出来るだの痛いだのとぶつぶつ文句を言ってきたので頬をはたいて黙らせた。
頬を腫らして不満げに俯きながらも、着物を整える自分のされるがままになって
いる芭蕉さんは子供のようだった。この人はいつもこうだ。そういう姿を見るた
び酷くしたい気持ちと大事にしたい気持ちが両方やってきて、途方に暮れて立ち
すくむような、そんなふうになることを彼は知らないだろう。
落ちていた荷物を手渡し、ほら行きますよと促すと、うんありがとう、などと言
ってさっき何の理由もなしに殴られたことなんか忘れたような顔をする。そ
れに苛々するのだ。酷くしたい大事にしたい。殺した表情の下で僕は混乱してい
る。
頭が重くて痛い。気持が悪くて視界が揺れる。いっそ吐きたいけど多分吐けないのはわかっている。
芭蕉さんといるといつもこうだ。こんなのいらなかった。芭蕉さんといるのが嫌だった。
あんなに素晴らしい句を詠むくせにどうしてこうなんだろうか。一緒にいる僕まで恥ずかしい。
それでも僕のいないところでこの人が貶されるのは絶対に許せないし、自分の
いないところでちやほやされているのだって気に入らない。
この人といるのは苦しくてしょうがないのに、この人が自分の目の届かない場所で誰かの評価
を受けているのが許せない。
芭蕉さんといると頭が痛むし気持ちが悪い。どうすればいいのかわからないし、自分が
何をしたいのかもわからない。痛む頭で思うことはいつも矛盾し混乱しまとまりがなく、
やっぱり
気持ちが悪い。
のろのろ歩く芭蕉さんを追い越しながら、見てほしい、見ないでほしい、と思っている。
いつだってそんなのばかりだ。いい句をつくってほしいあの神の言葉をきかせてほしい、彼を見てほしい知ってほしい。
俳聖としての彼を知ってほしい。だけど、駄目でいてほしい。何も出来ないでいたらいい。
ずっとスランプだって、それはそれでいいかもしれない。
誰も彼を見ないでほしい。何も知らないでいれ
ばいい。この人のうつくしいところなんて誰も見ないで、知らないでいい。
この人のまわりの人間なんかみんないなくなればいい。
誰もこの人に近づかなければいい。構わないはずだ僕がいる。
(頭痛いな)
視界が揺れて吐き気がする。目眩がしそうで気持が悪い。いつもこうだ。
どうすればいいかわからない。苛々して頭がどうにかなってしまう。もう病気だ。
だから、この苦しみも知らずに彼を笑う奴らを僕はやっぱり、許さない
。知ったような顔して語ることなんて絶対に許さない。
彼を馬鹿にするのも嘲笑うのも呆れるのも殴るのも蹴るのも見つめるのも見つめ
られるのも全て、みんな自分だけに許された権利であるはずだ。この地獄を知る
自分だけのものだ。
曽良君早いよ、と後ろから小走りでついてくるのを見ないように、ただ前を見て
足早に歩く。それでも曽良君曽良君、としつこく呼ぶ声にまた苛立ち、なんです
かと聞けばさっきはありがとう、と返ってきた。なにが。
「まわりの人たち、追い払ってくれたんでしょ」
思わず振り返れば、彼は珍しく年相応の静かな笑みを浮かべている。
君はそういところがあるから、と言うのを本当は、否定しなきゃいけない。
そんなんじゃあないと言わなきゃいけない。(それともこの人はわかっているのだ
ろうか?)
「君は優しいね」
そう言って笑うのに伸ばしかけた指を握り締め、それでも触れたいだなんて思
う今このときこそああ本当に、地獄だ。いっそ殺してくれ。
end