目が痛いと騒ぐので頭を押さえつけ瞼をひっくり返したら、目の中を 魚の影が横切っていった。医者に診せたらあと数日で川になりますねと言われ 「ありがたいことです」と手を合わされていた。芭蕉さんは「いいええ」と満更でも なさそうに微笑み、僕はその薄っぺらい背中を力一杯蹴倒した。あんまりだと思っ た。

宿に着くなり芭蕉さんはうとうとし始め、さっきから何度も欠伸を繰り返してい る。もう痛みはないらしい目を何度も擦り、僕が彼の前できちんと正座しどうぞ 川になどならないで下さいと頭を下げたのにも「うん、うん」と頷いたのだか寝 ているのだかよくわからない声を出す。頬を力一杯張ってようやくこっちを見た 。打つときには水面を叩いたような音がした。

「ふざけるのも大概になさい。どういうつもりですか」
「ぶたないでよ。川で良かったなって思っただけ」
「はあ」
「沼や池じゃなくて良かった。旅が好きだからね、流れてくもののほうが性に合 ってる」

そう言って彼はとうとう目を閉じてしまう。静かな寝息をたてる彼を無理矢理引 っ張り起こし、頬を何度か叩いたが、目覚める気配はまったくなかった。ぱしゃ ぱしゃと水の跳ねる音ばかりが響いて僕は目眩がしそうになる。芭蕉さんの襟を 掴んでいた手から力が抜けて、軽い体が畳に落ちた。それでさえ水の揺れるよう な音がした。やけにだだ広い部屋に僕一人立ち尽くしている。酷く気分が悪かっ た。

遠くで人の笑う声が聞こえる。明るい部屋の中でそれは夢の中の幻のように響き 彼の寝息だけが異様な現実感を持って僕に迫る。それでも部屋はとても静かだ。
障子越しに差し込む真昼の日の光が、やけた畳と彼の顔にまだらの模様を描いて いる。彼の瞼の上では日差しを受けた産毛が柔らかそうに、金色に光っていて、 それだけ見ていればまるで美しいもののようにさえ見えた。それを見下ろし僕は さっきの魚を思い出している。銀色の鱗を輝かせ、睫毛から頬のほうへ泳ぎ去っ ていく目の中の魚。彼の薄茶色の虹彩の上を幻灯のように過ぎっていった。認め たくはないがそれだって美しかった。もう一度見たさに、ずっと待っていたいよ うな気持ちも確かに、あった。

医者はありがたいと言っていた。川となった彼は沿岸に住む人々の生活を豊かに することだろう。あの銀色の魚が彼らの腹を満たし、水面の輝きは人の目を楽し ませ、浅瀬は子どもたちに遊び場を提供して、途切れない流れはあらゆる穢れを 洗い流していくだろう。医者は彼に向かって手を合わせた。まるで、神や仏のよ うにだ。僕は恐ろしかった。 彼の中に流れるその神性に、畏れるのではなくただ 恐怖していた。
彼は流れていく。その姿は美しいものだ。神のような美しさだ。彼の言葉はそこ までいってしまった。それは素晴らしいことかもしれない。彼にとっては本望か もしれない。それを許せないと思うのは、間違いかもしれなかった。


畳の上に投げ出された芭蕉さんの痩せた腕をとると、爪の先から小さな魚 がふと流れ出た。床に落ちて、ひとつ跳ねると、芭蕉さんの影の中に飛び込んでいった。


ああ、無理だ。
と、思うのと同時に手を差し込んでいた。芭蕉さんの影に手首までつかると 冷たい水の流れを感じた。そのまま腕まで沈めていって、肩まできたところで 頭から飛び込んだ。体ごと流されていく感覚、肺まで水がはいりこんで、 ごぼりと吐いた自分の空気の泡が目の端をかすめる。上の方に きらきら光る水面が見える。もっと深く潜ろうとしたが、また 流されていく。仕方ないので 自分の意志で動くことを諦めて流れに身を任せることにした。そうして 耳の横をごうごう流れていく水音を聞きながら、「もしかしたら」と考える。
瞼を閉じる寸前顔の横をすり抜ける美しい魚、きらめく気泡。僕は ごぼごぼ笑い、浮きつ沈みつしながら流されていく。もしかしたら。

「もしかしたら僕は、これこそを望んでいたのかもしれない」




宿の一室、広い畳の上には大きな水溜りだけが残っている。 風もないのに波紋が広がり、やがてやんだ。誰もいない部屋に、 みちづれにしてごめんね、という声がかすかに響いて消えた。




入水心中

20090821