「Nine, ten, never sleep again」
薄暗い、幅の狭い廊下が、どこまでも続いている。
両側には襖が整然と並んでいる。
床には大量の履物が、雑然と並べられている。数え切れないくらいの、
これから始まる宴会にはしゃいで、慌てて脱ぎ捨てていったような
履物は、果てのない廊下の奥まで続いて、暗闇の先でふつりと
消えている。
それでも襖の向こうは水を打ったように静まり返っている。
無人の廊下は森閑としている。
ぱたん、と襖が鳴った。
右側の四つ目の襖からだった。
音をたててしまった先程の不始末を誤魔化すように、息をこらしている、気配がする。
それが彼の手口だと重々承知で僕は
がらりと、襖を勢いよく開ける。思ったよりずっと狭い
部屋の真ん中で、芭蕉さんが仰向けに倒れている。それを
踏みつけにする白い脚、こちらを振り向く、黒髪
から覗く石みたいに真っ黒い目玉。
僕だった。
芭蕉さんはよく人を夢に引っ張り込む。
旅先で同じ部屋で床についた時など特に、蛇に襲われた日や、
雷が鳴り響く夜など、特に。
芭蕉さんの悪夢に引き込まれて、僕は彼を助けにいかねばならなくなる。
芭蕉さんの夢は広い。それか、針のように深い。
僕はどこまでも泳いで、潜るように、最深部まで彼を迎えに行く。
色々と面倒くさい。芭蕉さんの夢の中で、
僕は牛の胴体よりもっと大きな大蛇の、生臭い腹の中まで潜り込んだこともある。
引きずり出した芭蕉さんは生まれたての胎児みたいに
血と体液にまみれて噎せこんでいた。
海の底で、いびつな形の深海魚に纏わりつかれて、
呼吸も浮上も出来ないで苦しんでいたりもする。僕は魚をみんな殺して
上まで彼を
引っ張っていかねばならなかった。
いつだかは、町中の人に囲まれて身動きとれないでいるのを助けた。
山みたいな人だかりの真ん中でうずくまって、芭蕉さんは
耳をふさいでいた。取り囲む人々には耳も目もなく、唯一残った
口唇を嘲笑の形に歪めて、彼を罵倒し続けている。
芭蕉さんの夢は広くて深くて不快だ。
あの人は時々泣きながら目を覚ます。そうして、曽良君
ごめんね、助けてくれて、ありがとうね、と言って、
しみじみと溜息をついたりする。
僕は頭をはたくか蹴り飛ばすかしてそれに
こたえる。
「怖いものだらけですね」
と言うと、拗ねて、そんなことないとか怖いんじゃなくて嫌いでとか
うだうだ言って、それでもしばらくしてから、
「でも、助けてくれるから、減ってきたんだよ」
と、照れたように笑った。
旅の途中、山頂あたりで夕陽を眺めた。
芭蕉さんの足が
遅いので次の町まで下れなかった。ただでさえ苛々している時に
立ち止まったりするから、腹が立って、いい加減にしてください、
と打ちかけてようやく、芭蕉さんの目に映る、燃えるような空に気がついた。
芭蕉さんは僕に気付くと慌てて足を動かし始めた。歩く、歩きます!
と言って、ぎくしゃくした足取りで僕を追い越していく。
膝ががくがくで、明らかに無理しているのがわかって僕は溜息をついた。
まあ、置いていっても、いいんですけど、一応。そう言って彼の前にしゃがみこむと、
無駄に大袈裟にうろたえる気配がした。それを無理矢理おぶって、
大きな歩幅でゆるい斜面を下り始める。
背中から、すごい、鬼が、いや曽良君
が優しい、弟子みたい!と、
無暗にはしゃぎまわる声がやまない。無言で足をがっちり掴み
崖側のほうに寄って行くと、嘘ですごめんなさい、と言って少し大人しくなった。
しばらくぶつぶつ言ったあと、芭蕉さんは
僕の肩に置いた両手に力を入れて、後ろに大きくのけぞった。
腕を伸ばし胸を空に向けて、
燃えてるみたいだねえ、と感心したように呟いている。僕は
笠の間から空をはすかいに覗き、
さっき見た、彼の目の中の真っ赤なを思い出す。
「きれいですね」と、僕が言うと、彼がちいさく息をのむ気配がした。
何も言わずに頷くのが背中越しに感じられる。
彼と背中の間の隙間が酷く熱い。
彼の夢の暗い空の下、荒涼とした大地の真ん中で大きな木が燃えている。
ごうごう音を立てて崩れていく大木の前で、
あの人は一人、猫背の薄い背中をこっちに向けてじっと
立ちすくんでいる。短い髪が赤く染められて、炎の勢いに合わせて
ふわふわ揺れていた。暗い空気一面に火の粉が飛び回っている。
彼の頼りない首がぎこちなく俯いていき、
真っ白になるほど拳を堅く握りしめる。
天を焦がし燃やし尽くすような
炎はおさまる気配も見せず、轟音を立てて木を崩していく。
一番太い枝が焼け落ち、一際大きな音があたりに響いた。そうして
芭蕉さんが震える声で、見ないで、と言った。
芭蕉さんの夢は最近とても部屋数が増えた。
前は深いかだだっぴろく拓けていたのが、蜂の巣のような
浅く小さな部屋が、無限に連なるようになった。
部屋には扉があり隣には別の悪夢が待っている。
そしてなにより一番の変化は、そこで彼を救うのが、僕ではないということだった。
見覚えのある先輩弟子や友人、果てはその日の宿の主人まで。
皆戸惑いながら、目の前の化物や災害から芭蕉さんを救いあげる。
そうして夢に引き込んだ弟子たちからは、
こんな夢を見ましたと便りが届いたりもする。
そういう日、芭蕉さんは僕を、絶対に見ない。
なぜ、という思いは口にはできないまま、ふつふつと胸に
わきおこってくる。なぜ、彼の夢はこんなつまらないものばかりに溢れるている
んだろう? あの果てのない、深くて広くて、声を失うほどに恐ろしく美しい、
あの夢は?
なぜこんなにたくさん、誤魔化すみたいに? 隠すみたいに?
なぜ、隣で寝ている僕以外に、助けを求めたりするんだろう?
なぜ?
なぜ僕の部屋では、僕が悪夢になっているんだろう?
彼の最近の夢の中で僕はおかしなことになっていて、彼をめちゃくちゃに殴る僕を僕が
止めたりする。殴ったり、殺したりして。
芭蕉さんは僕を見ないで、ずっと俯いている。苛立って手を上げたら
襖が開いて僕が入ってきて僕を止めて僕が僕に殺されて苛立って、殺されて。
芭蕉さんだけが一人きり、僕に傷つけられて救われ続けている。
だけど実は、なぜ、なんて、本当は全部、わかっているのだ。
彼は、頭がおかしい! ああいや、違う、ずるいのだ。
そんな夢をみておいて僕を夢に引きずりこんでおいて、
なお気付かないふりをする彼は卑怯だ。そしてそれを知りながら彼を見放さ
ない自分こそが、一番頭がおかしい。
彼を殴る僕を僕が倒し、僕に恐怖していた彼は僕のおかげで
ほんの一瞬だけど安堵して、それからまた僕に、怯え始める。完結し
たこの夢はだけど、夢の一部屋でしかないのだ。隣りの部
屋では雷が獣が蛇が盗賊が親しい人の死が彼を襲い悲しませ、違う誰かが彼を
救いあげている。
ほんとうに馬鹿だな、と僕は思う。
今更そんなふうに心の内を隠すような真似したって、無駄なのに。
僕は、だってもうずっと前から、彼の夢に引き込まれる前から、
彼の夢をみていたのに。彼を夢みていたのに。
彼の馬鹿なことやずるいことや自分のおかしいことは全部わかっているのだが、
それでも気に入らないことには変わりない。
しかしどんなに部屋が増えようと
僕の部屋ほど矛盾し歪んだ部屋もないので、それならそれで、と思い部屋
の戸をかたっぱしから開けては中にいるもの全部を殺すことにした。どうせ夢だ
。彼が僕に恐怖と救いを見出だすのならそれでもう他にいらないのでは?僕の
部屋だけで十分では? だってそもそもあんなの全部、僕のための目くらましだろう?
というわけで僕は今夜も悪夢をばっさばっさと切り捨てる。
やめてやめてと泣きわめく芭蕉さんは無視して、だってその芭蕉さんが呼ぶのだ
って、僕なのだから。望んでいるのは彼なのだから。
真っ黒い瞳で僕を睨みつける僕に刀を一振り、襖を開けて
醜い化物と彼を助けるお人よしとそいつらに助けられる芭蕉さんを
重ねて二つ四つ六つ、僕と同じに血まみれの最初の部屋の芭蕉さんの腕を
掴んで引きずって、襖を何枚も開けていって、いつか、
彼がその果てに隠してるものを、いつの日か彼の目の前で暴くため。
僕は今夜も血飛沫撒き散らし彼の悪夢を突き進む。
血肉と汚泥にまみれながら、そう、二人の幸福のために!
『エルム街の悪夢3』