春の夕暮れだった。
赤い土手道を子供が走りぬける。色の薄い髪が赤い陽を通して、柔らかく揺れて いた。小さな手にれんげ草を握りしめ、旦那様旦那様、と満面の笑みで走り寄る のを、子供よりも少し年上の少年が大人びた笑みで受け止めた。かわいらしいで しょう旦那様、旦那様に見せたかったの!そう言って笑う子供の泥のついた頬を 、線の細い少年が撫でる。
少年が子供の手をとり、子供はそれを握り返す。二人並んだ影が、夕暮れの 道に長く延びていた。からすがなくから、と子供が声を張り上げたのに隣の少年が 声を上げて笑いだす。繋いだ手を大きく降りながら、子供は歌う。




よく晴れた夏の日だった。
雲一つない青空に、白い煙が細く細くたなびいていた。
喪服の大人たちに囲まれながら、子供はそれをただ眺めていた。 まわりの大人が泣きながら、旦那様が亡 くなって、あのこは一体どうなるんだろうねえ、と漏らす。泣き声の満ちるなか 、子供はひとり黙って、主の消える先をただただ見上げ続けた。




あの日よりもずっと赤い、秋の夕暮れだった。
その同じ土手道を、子どもはただ一人走り抜けていく。すれ違う大人たちに明る く挨拶をしながら、元気よさげに駆けていく。
主が死んでから子どもはよく笑う 子になった。前から愛想はよかったが、それにも増して、始終にこに こと笑みを振りまく子になった。彼は笑顔のまま走り続ける。愛想を振りまきな がらどこまでも走り続け、それでも、その行く先を知る者は誰一人いなかった。

子どもは長く長く、伸び放題に生い茂る青草の原の中に、ざくざく足を踏み入れ ていく。そして深くまでやって来ると、急にその場にしゃがみ込んだ。うずくまり顔を 膝に埋め、長く深く息を吐く。彼の小さな体は草むらの中にすっぽりと隠れている。 顔をあげた彼はもう笑ってはいない。誰に見せることもない、そ のほっとしたような表情は、大人びると言うよりは老人のように疲れて、それでも どこか、凪いだ穏やかさがあった。

彼は雑草の隙間から、川の流れを、それに反射する夕陽の赤い光を眺めている。 その唇がなにかを言葉にしようと、小さく開いて、逡巡するように震わせ、結局はそのまま閉 じてしまう。彼はまだこの光景に見合う言葉を知らない。目を伏せた彼は足元に 小さな花を見つけ、ようやく自然に顔をほころばせた。小さな指先でその花びらを 撫でて、あいらしいね、と柔らかく呟く。

「私はお前たちが、一番好きだよ。お前たちはずっとそこにいるものね」

私から離れて、いなくなったりしないものね。
そう言って彼は他では決して見せない、安らいだ表情で微笑む。




しんしんと雪の降り積もる夜だった。
部屋には布団が二組敷かれて、彼の隣りでは黒髪のきれいな女が横になっていた 。雪が音を吸い込んで外はとても静かだ。女は彼に背を向けたまま、もう寝まし たか、と囁いた。

「本当に行ってしまうのですか」

静かに尋ねる女に、彼は答えない。彼もまた女に背を向けて、薄く開いた目で障 子のほうを見つめていた。障子の隙間から冷気が流れて、彼の鼻先を冷やした。 女は彼が起きているのを知っているのかいないのか、ただ淡々と言葉を続ける。

「ねえどうして急に、藩を抜けて仏道に入るなんておっしゃったの。ねえ、あな た本当は、私から逃げたいだけなんじゃなくて」

彼は何も答えない。目を固く閉じて、枕に耳を強く押さえつけた。外は静かだ。 女の肩が震えだす。もういい、もうどうだっていいわ、と言う女の声は泣き濡れ ている。彼は力をゆるめて、また静かに目を開いた。女の押さえつけた嗚咽に耳 をすませながら、その唇が小さく、ごめんと声にならないまま動いた。女は察し たように「やめて」と言った。

「私、頑張ったつもりよ。でもあなたは信じないし、もうなんだっていいわ 。夜が明けたらさっさと出て行ってちょうだいね。だけど、ねえあなたは、ずっ とそうやって生きていくつもりなの」

私はそれが可哀相で泣いているのよと、女はそう言って、それきり黙ってしまう 。冷えた部屋に女の嗚咽だけがいつまでも続いていた。雪は降り続ける。彼が静 かに目を閉じた。




月の明るい晩だった。
彼は宴会の、座の中心にいた。たくさんの人に囲まれ、賑やかに飲み交わしなが ら時々、困ったような笑みを浮かべた。眉を下げ、目の前の馬鹿騒ぎを見つめな がら、ああ楽しいなあと微笑む。そのくせ寂しそうな顔をする。

彼はまわりの目を盗んで座から離れると、夜の庭先に出た。闇に紛れながら固く 目を閉じ、遠い喧騒を意識から外して虫の声だけに耳をすます。
秋口のことで、 鈴虫や蟋蟀が鳴き交わし始めていた。彼はそれらにすらかき消されそうな心細い声 で、あんまり楽しいのは怖い、と呟いた。




黄色く霞んだ春の午後だった。
間延びしたような黄ばんだ日差しのさす、埃っぽい道を彼は歩く。
彼の数歩後ろ を若い男が歩いていた。芭蕉さん、と男が声をかけ、彼が振り返る。

「僕をあなたの弟子に」

男は長い前髪の間から、表情の読みづらい瞳で目の前の彼を見据えていた。本当 は、手が少し震えていたが、そんな気持ちはおくびにも出さないで、男は彼の返事 を待っていた。

「…河合君っていったね」

彼は少し困ったような顔をして、でもいいの、と尋ね返した。君の道は、と聞く 彼を男は、それはあなたに関係ありません、と静かに言い切る。黄色い風に男の 長い髪が揺れていた。それを見つめる彼は不安気に瞳を揺らして、それでも最後 には小さく、確かに頷いた。




眩しいくらいに明るく雪の積もった昼だった。
男に打たれて頬が赤く腫れていたが、それでも彼は機嫌よさそうに鼻歌を歌っていた。 火鉢に脚をからめて両手をかざしながら、さっき自分でつくった雪達磨を満足そうに 眺めている。「いいでしょう、あれ」と言って笑うのに、男は、はあそうですか、 と気のない返事をした。それでも彼はまだ上機嫌だ。その唇の端が切れて、血が滲んでいる。 少しやりすぎたと、男は眉を寄せた。
殴られて、なにへらへら笑ってるんですか気持ち悪い。男がそう言うと彼は少し眉を寄せ、 それでも結局はまたへらりと 相好を崩した。だって嬉しいじゃない、と彼は言う。

「殴るけど、君はこんな日にも来てくれたから」

彼を見下ろしていた男は彼の隣に座って、調子に乗らないで下さい、と言って頬を強くねじった。 そうして二人並んで、暖かい部屋の中で、静かで眩しい庭を眺めていた。




肌寒い雨の日だった。
彼は部屋に一人寝転がり、霞む外の景色を眺めていた。時々雨の句を詠んでそこらに散らばって いた半紙に書き留めていた。畳の上から直接書くせいで字はがたがた揺れていたし、 畳には墨のあとがついた。飽きると筆を転がし、半紙を蹴飛ばして、体をまるめて人形を抱えた。 庭には紫陽花が茂っている。霧雨にかすんで、それでも鮮やかにうつるそれを眺めながら、きれい に咲いたね、と呟いた。

「曽良君見にこないかな」

小さくそう言って目を閉じて、そのまま眠った。




陽炎のたつ、晴れた夏の日だった。 彼が目を丸くして男を見上げていた。曽良君それ、と言ったきり絶句して、ただ男の頭を眺めている。 男は、馬鹿に見えます芭蕉さんと言って、珍しく口元を緩ませた。男の長かった黒髪がばっさりと、 短く切り揃えられていた。白い額があらわになって、前よりも幼く見えた。
彼の指が男の前髪の先に触れる。男はくすぐったそうに目を眇めて、鬱陶しいですと悪態を ついたが、避けはしなかった。

「曽良君、なんで」

尋ねる彼に男の口はまた緩む。反対に、彼の目はおびえたように揺れていた。男にもそれはわかってい た。だからこそなんでもないような顔をして、当然、という顔をして、言ってみせたのだ。

「今度の旅に、同行すると言ったでしょう」

彼が息をのんだ。




風の強い夜だった。
安宿の障子ががたがたうるさく鳴っていた。男が蒲団の上から彼にのしかかっていた。
芭蕉さん、と呼び掛けながら男は彼の耳をふさぐ。彼は避けるでもなく、両手で 自分の耳を押さえつける男を、ただ黙って見つめ返していた。その瞳が静かに、沈んでいくよ うに色を変えていく。
芭蕉さんと男が再び呼び、彼は黙ったまま男を見上げている。その唇が微かにわ ななくのを、男はとても間近で見る。

男の口が小さく動いた。彼の耳をふさいだまま、掠れた声で、何かを呟いた。 彼はやはり黙ったまま、読めない目で男を見つめている。男の指 は強張ったように固く動かない。

「わからないよ」

しばらくの間を置いて彼はそう答えた。聞こえないよ曽良君、いまなんて言った の。そう言って、自分の耳をふざぐ男の手の平に恐る恐る触れる。聞こえなかっ た、と言って微笑む彼に、男は両手を下ろした。

「なら、いいです」

さっさと寝て下さい明日も早いんですから、などとと言いながら男は彼から離れて、 立ち上がる。彼は大人しく頷いて蒲団をかぶり直した。男が行燈の灯 を消す。まっ暗になった部屋に、風が障子や襖を軋ませる音だけがいつまでも響いていた。 彼も男も背を向けたまま長い間黙って目を開き、互いの呼吸にに耳をそばだてていた。 いつかと同じような夜だった。




曇り硝子ごしに見るように、月のうるむ晩だった。
真夜中の暗い暗い道を、二人で歩いていた。やっぱりまだ寒いね、彼が言うのに、数歩後 ろを歩く男が、だから言ったでしょうが、と苛立たしげに答えた。暦の上では 春でも、まだ道の脇に雪が残る頃のことだった。酔狂な彼が夜更けに散歩をしたいと 言い出したのに、男は付き合わされていた。

雲の多い夜だった。月が完全に隠れてしまうと、目の前の彼さえ見えなくなる。男は静かに手を のばし、指先が闇にまぎれるのを見た。静かな夜。ふたつの足音だけが聞こえていた。 不意に、砂利を踏む音がやみ、彼が立ち止まる気配がした。

「梅だ」

闇の向こうから彼の声だけが届く。男も立ち止まり、暗闇の中で頭を巡らした。 梅の香りが冷えた空気に混じっていることに、男もようやく気がついた。

「たくさん咲いてるみたいだね」

満開のはずの梅は夜にまぎれて影も見えない。香りだけが夜の冷たい空気に溶けて 肺を満たす。静かな夜だった。風もなく、月はいつまでたっても雲に隠れたまま、 あたりはいつまでもまっ暗闇だった。 彼はまだ歩きださない。男もその場から動かず、同じ距離のまま、芭蕉さん、呼んだ。 彼は答えない。芭蕉さん、と呼ぶ小さな声が冷たい空気を揺らす。 深い闇のなか、彼がひっそりと耳をふさいだ。







風のない夜だった。
病で伏せる彼が、蒲団の中で静かに目を開く。半身を起こすと、障子の向こうに首を向けて、 しばらくじっとそうしていた。

「静かな夜だね」

そう言うと彼はようやく、僕のほうを、見た。
目をあわせて、付き合わせてごめんねと微笑みかけてくる。
とうとうここまで来て しまったと僕は思う。

「長いようで、短かったなあ。どうかな、君には長かったかな」
「さあ…」

なんか疲れちゃったよと言いながら、また蒲団をかぶり直す。酷く緩慢な動きだ。 僕は彼の枕元に正座し、黙ってそれを見つめている。手を貸すのはなんだか嫌だった。 それでも目だけは逸らさないように、睨み付けるように彼を見下ろし続けた。曽良君、 と彼が呼んで、僕のほうに手を伸ばす。

「手、貸してくれない」

言われるまま手を差し出すと、僕の両手をそれぞれ掴んで、自分の耳にあてがった。 そうやって僕の手で耳をゆるくふさぐと、見慣れたあの、怯えたような表情で、それでもまっすぐに 僕を見上げてきた。あの夜に似て、どこか違っていた。

「もう一回、言ってくれないかな」

彼は目を逸らさない。その目が怯えながら期待しているものが、今度はちゃんとわかった。手の 力を抜いたまま、あの時と同じ言葉を口にした。

「好きですよ」

とても。ずっと。あなただけなんですと、そう言うと、彼の顔が途端に歪んだ。耳にあてたままの手 を強く握り締められ、彼の口から嗚咽が漏れだす。涙が僕の手を伝って、枕を濡らしていった。 そうやって震えて、泣きじゃくりながら、嗚咽の合間に何度もごめんと呟いていた。

「聞こえてたんだ、本当は、あの時」

ごめん、ごめん、ねえ。謝りながら泣いて、僕の手を掴んで離さない。 僕は酷い無力感に襲われて力が抜けていく。今更だ。

「私は、怖くて。また失うのがもう本当に、怖くて怖くて、いろんなものを捨てて、 得られるものも避けてきたんだ。それでうまく、やれてた。のに。君が」

君が、さあ。
彼の手から力が抜けて、僕は彼の耳からようやく手をはなす。涙で濡れたそれを蒲団の 端で拭い、子供のようにしゃくりあげる彼の頬を思い切りつねった。ここまできて僕のせいですかと 言う僕を見上げ、彼は喚きもせず、ただ黙って耐えている。 彼がゆっくりと瞬いて、静かな声でまたひとつ、ごめんね と言った。

「私は臆病で、それに卑怯だった。本当は、君が無理矢理にでも私に入り込むのを、待っていた。 ぎりぎりで私に逃げ場を用意する君に、半端だと苛立ってさえいた。わかってな かったんだ、全然」

曽良君。君だって、怖くないわけがなかったのに。
気づけば彼の目からあの頃の怯えが消えていた。濡れた瞳は弱弱しいくせに、慈しむような 色をもって僕を捉えている。思わず怯みそうになる僕に彼は痩せた腕を伸ばし、僕の耳を優しい 力でふさいだ。また、今にも火がついたように泣きだしそうな顔をして、嫌なら聞かないでいいよ と、僕の耳を最期の力で押さえつける。そうして、今だから言えるけどね、と言って、さも愛しいもののよう に僕の名前を呼ぶ。

「本当は君が大事で、好きでしょうがなかったよ」

そう言って微笑むと彼の手から力が抜けて、僕の耳からすべり落ちていった。
肩にかかる手を静かにとり握り締める。その手から熱が失われていくのを 感じながら、今更それを言うことになんの意味があるというのかと考える。 全部今更なのだ。だいいち、言われなくても本当はわかっていたことだった。 彼がそう思ってることくらい、言われなくても知っていた。だけど、それでも、 僕は最期のこの手を本当に得難いもののように握りしめ、馬鹿ですねと呟く声も、 優しいものになってしまっている。冷えていく手が酷く悲しいのに、 胸には暖かいものが広がっていく。

外は変わらず静かで、暗闇は薄くなってきていた。朝がくる。
そうして僕は彼の夢から覚めていく。








白くまぶしい空の、遠くのほうが紫色に霞んでいる。
冷たい秋の

「あ、」

ここに彼はいない。
自分の部屋、自分の蒲団の上でゆっくりと覚醒していく。そうして美しい夜明けの空を眺めている。 頬に涙の冷たく残る感触がある。冷たい風が頬を冷やす。夢の余韻はどんどん失われていく。 この空の続く向こうにさえ彼はもういない。だからこの風景を刻み込む必要はもうなく、だけど 自分は多分、この景色をこの先ずっと忘れられない。

「ああ…」

熱くこみあげるものがある。喉の奥が震える。空は静かに明るさを増してゆく。
部屋の外で、女中の慌しく駆けてくる気配がした。わかっているから、部屋に入るなと 言いたいのだけど声が出そうにもない。合図もなしに襖を開けた女中が、真っ赤な目で、 翁が、と言って絶句する。泣き崩れる彼女から目を逸らし立ち上がった。障子を完全に開け放ち、 冬の匂いを含みはじめた清浄な空気を感じて、空の薄青く色づき始めるのを眺める。変わらず 美しい世界はしかし、僕にはもう何の意味もなさない。ここに彼は いない。長い長い夜が明けていく。冷たい秋の朝。芭蕉さんが死んだのはこんな朝。




彼と見た世界





















芭蕉さんの走馬灯に付き合う曽良君でした。わかりづらすぎすいません。
ていうか細かい萌えを詰め込んでみただけなので史実ぐっちゃぐちゃです。すいません。


2008.07.11