真夜中に目が覚める。心臓がうるさく鳴って、全身に汗をかいている。 覚えられない夢には暴力の気配があり、強張る体と暗い部屋に、それは まだ色濃く残っている。布団の端を握り締める手は震えが止まらない。 暗い部屋で目を開き、畳の目を意味もなく凝視しながら、夢の中の、勢 いよく振り下ろされるあの白い掌ばかりが、目の前にちらついてしょうがない。




眠れない夜が続いている。夢をみるのが恐ろしくて眠れない。 医者はストレスのせいだと言って注射を一本打つだけで、それは痛いばかりで なんの役にも立たない。
夜は疲れてうとうとするが、その少しの睡眠でも夢を見るので、すぐに目が覚める。 その時はやっぱり体は冷たく強張って、震えている。そしてもう眠る ことは出来なくなる。
昼のあいだもやはり眠れずに、ただずっとぼんやりとして、視界はいつも霧が かったようでおぼつかない。無理に目を開いてみても、景色はなんとなく間延び し、どんどん薄青くなるばかりで、現実感に乏しかった。いつも夢の中を歩 いているようで、急に、自分のいる場所がわからなくなったりした。




病院からの帰り道は古い住宅街で、罅の入ったコンクリート塀から、白い花を 咲かせた痩せ枝が下がっていた。柔らかそうな花びらに瑞々しい管が透けてい る。
いつからそれを見つめていたのだかわからなかった。 空は赤く、影は長く 長く伸びきっている。病院を出たのはまだ午をすこし過ぎた頃だったはずだ。 頭上近くでカラスが鳴いて、私は大きく瞬いた。
白い花は夕陽の赤を暖かくと おして、美しい影をつくっている。私は冷たい水を背中に流しこまれたような 気持になって、足早に歩きだした。塀の上のカラスが、私を見つめてい るのを背中で感じる。私は日暮れの中で花を見つめながら、あれの赤く染 まっているのにたった今気がついたのだった。何時間もあそこに立ち尽くして 、私の見ていたのは、青空の下に咲くあの花の群生だった。「息を呑むほど美 しい光景だった」という言葉が浮かんだけれど、私には、そんなものを見た記憶 はないはずだった。




暴力の夢を繰り返し見ている。私に向って振り下ろされる白い手の平だけを 覚えている。私は情けないほど怯えていて、目が覚めたあとも涙が止まらな い。震えが去り、体が温かみを取り戻して弛緩するころになっても、涙は だらしなく流れ続ける。その源などすっかり忘れているのに、夜明け とともに薄れていく夢の気配を感じながら、私はしつこく泣き続ける。形の いい、少し骨ばった白い手の平ばかりを、表で鳥がうるさく喚き始めるまで、 何度も何度も思い返す。




朝からまた病院に出かけて、栄養剤だという注射を打たれて帰ってくる。 仮病と疑われているわけでもないのに、締切を過ぎていることがどうして も後ろめたく、診断書をもらいに通っている。夜中じゅう起きているのだ から書けばいいのに、そのころは変に神経がざわついて、集中してものを 考えることが出来ない。昼間は昼間でぼんやりとしてしまうので、来月の 文芸誌に載せるはずだった書きものは結局、流れてしまった。あまりの不 始末に何度も頭を下げたが、向こうはかえって申し訳なさそうな顔をして、 こっちはいいですから、どうかちゃんと療養なさってください、と言って 私をひとつも責めなかった。彼らは自分たちの与えた仕事のプレッシャー が、私の不眠症の原因だと考えているらしかった。事実はどうにせよ見放 されないのは有難いことだし、彼らの真からの気遣いが嬉しく、大丈夫、 絶対に書くから、と言ったものの、いまだに一行も書けないままでいる。


下手な注射のせいで、いつまでも痛む腕をさすりながら帰路につく。停留 所のベンチに座り、バスを待っていた。道路をはさんだ対岸に、フェンス で覆われた池がある。伸び放題の雑草から覗く水は濁っている。欠伸をし たら、空気がここまでやってくるのか、冷たく淀んだ匂いがした。それか ら開いた口に、生臭い水の味が口いっぱいに広がって、あっと声をあげそ うになった。あんな池の水の味など知るはずもないのに、私はそれを覚え ている。呼吸の出来ない苦しさと、もがいても届かない脚、掴まるものの なにもなくて暴れる手に絡む、ぬるついた藻の感覚も、蘇る、という感覚 でもって私に走るけれど、私に池で溺れた経験などやはりないのだった。 膝の上で手が震えていた。隣に座っていた婦人が心配して、大丈夫ですか、 と声をかけてきたから、無理に笑って、いえただ向こうの池が臭って、と 答えると、彼女は対岸に目をうつし、訝しげに目を細めた。

「あれ、池なんですか?」

顔をあげて見てみると、荒れたフェンスの向こう、雑草の間に水面なんか 、全然見えなかった。




差し伸べられる手を夢見る。
溺れた私の、濡れて、汚れた手なんかで触るのを躊躇うくら いにきれいな、白い、大きな手を覚えている。それだけが頼りのよう に感じていた。恐れも怯えもなく目覚めたのに、涙だけは変わらず流 れた。そうして布団の上から膝に顔を埋めているうち、外は白々と明 けていく。遠くで鳥が鳴いている。何故か耳をふさごうとして 、訳もわからず、結局拳をつくって布団を握り締めた。強く強く握り しめながら、あの時私は、あの手をつかんだのだろうかと考える。




夢から暴力の気配は消えないままこんなふうに、優しいものが混 じるようになった。あの手が私を慈しむように動くのを、同じ手に殴 られながら眺めているような、混乱した夢を見る。目覚める時はやは り震えている。振り上げられた手に怯えながら、差し伸べてくる手に は、なにかを期待している。胸が重くなって汗が噴き出る。目はどん どん冴えていく。そうして布団の中で縮こまりながら、早く、早く、 という言葉ばかりが頭をめぐる。あの手の持ち主を私は知らな い。それを思い出さなければならない。早く早く、漠然とした焦りが胸を焦がす。 思い出さなければならない。遠い記憶の断片なのか、もし かしたら想像の産物でしかないのかもしれない、なにもわからない、そんなものに。 それでも思いださなければならないと、頑なに信じている。 思い出したいのだ。あの手のつづく先を見なければならない。夢の 先を見なければならない。思い出さなければ。早く早く早く。
だけどこの 気持ちの持って行き場はどこにもない。布団の中で獣のように身を 丸めただただ、あの手を思い出している。私は本当に焦っている。早 く早く。何に焦っているのかも、誰に対する義務感なのかもわからないのに。




白い花を差し出す手を夢見る。
一面に咲いていた、あの花の名前は忘れてしまった。
近くに咲いていたものをひとつ、あの手が手折って、私に差し出した。
かざして見るとあれは青空によく映えて、薄い花びらに陽かげが透けていたのだった。 あれは本当に、本当にきれいだった。
あの花も、それをくれたあの手も、胸が痛くなるほど美しかった。





「大丈夫ですか」
医者の顔がいつも以上に滲んでいるので目をこすると、水滴がぼたぼた膝に落ちて 驚いた。私は泣いていたらしい。いつからここに座っているかもわからず、医者が 心配そうな声でなにか言ってるらしいのも何も理解できなかった。力が抜けていき、 目の前のものがどんどん平坦になっていく。もう声もでない。涙ばかりが勝手に 流れていく。

「もう、疲れた」

眠りたい。眠って夢の続きが知りたい。そう思うのに私はいつもすぐに飛び起きてしまう。 暴力の気配が私を震えさせる。眠りたいけれど眠りたくもない。夢も見たくない。 殴られる夢は恐ろしいけれど、優しい手の夢は 余計に私を疲れさせる。あてのない焦燥と涙に私の神経が擦り切れていく。 どうせ思い出せないのなら、わからないのなら、もう、忘れたままで いたい。何も考えずに朝まで眠りたい。

「疲れた…」

力なく呟く私に、医者は躊躇う素振りを見せた後、わかりましたと頷いた。

「少し法に触れるものですが、強い薬を用意します。その夢はもう、二度と見ること はないでしょう」

手に入ったら連絡しますから、と言って微笑む医者に礼を言い、私は病院をあとにした。 足もとが覚束ない。ぼんやりしたまま歩き続け、家に着くころようやく、医者の言葉が 沁み入って、安堵の気持ちが湧いてきた。眠れる。
思わずその場にへたり込み、笑おうとして 喉から出てきたのはやっぱり嗚咽だったけれど、大丈夫、こんな感情、もうすぐ消して しまえるのだから。そう思いながら、冷たい床の上、震える唇を噛みしめている。




私の手を握る、あの白い手を夢に見る。
硬そうで、いつも冷たいと思っていた手は存外柔らかく、今はとても暖かい。
あなたの手が冷たいんです。と彼が言う。馬鹿ですねと言って、私の手を痛いくらいに 強く強く握りしめてくる。乱暴な手だ。いつも私を痛めつけて苦しめて、時々 優しいせいで、よけいに辛かった手だ。それが今こんなに強張り、震えているのが、 悲しくて、愛しくてならない。握り返してやりたいのにもう手に力が入らない。この期に及んで さえ辛辣な言葉も小さく掠れて、彼は時々詰まったように息を呑む。縋るように私の手を握る、 白くて、少し骨ばった、きれいな手。私を殴って慈しんだ手。私はこれが本当は好きだった。 いつまでも見ていたかった。もっと触れていたかった。 私の手から力が抜けて、彼の手からすべり落ちる。布団に腕が 落ちる寸前、彼が小さく叫ぶように、私の名前を呼んだ。









いりませんと私が言うと、医者は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。

「なぜですか」

だって今日も、隈がひどいですよ。医者は心配そうな顔で言い、机の上の薬を手にとり 両手ではさむようにした。薬包紙に包まれた白い粉末が、医者の手の中で かさかさ音をたてている。それをぼんやり、霞む目で眺めながらも、「いりません」と はっきりと口にした。

「忘れたくないんです」

辛いし、疲れるけれど、忘れちゃいけないと、思う。忘れたくない。寝不足のせいで 縺れる舌で話しながら、それでも、意識は常以上にはっきりしていた。 あの手を握り返せなかった夢をみて、目覚めて感じたのは強い罪悪感だった。 涙がでるくらい愛しい夢だった。喉元まで迫る、何度でも呼びたい名前を知らないことが 、もどかしくてならなかった。呼ぶべき名を知らない私はただ何度も、ごめんと繰り返していた。 彼が私の名前を呼んだ、声にならない悲鳴のような音を思い出しては、罪悪感と切なさに身を 縮こまらせていた。彼にあんな悲しい声をさせたのは私なのだ。彼を置いてきてしまった。 きっと私は彼になにも言えないまま、彼にも、言う機会を与えないまま彼を置き去りにした。

でもそれは全てただの夢だ、あなたの妄想でしかないと医者は言うけれど、私にはどうしても 、そうは思えないのだ。私はいつだか確かに、あの手に殴られながら頼って、生きていた。 あの手は私の手をとって、花を与えてくれた。 今はそれを覚えていたい。眠れないのが彼を 置いてきてしまった報いというなら、それならば、受けようと思う。 痛みも苦しさも全部含めて抱いていたい。大事にしたい。そしていつか、名前を呼んでやりたい。
そして例えこれがただの妄想でも。これを失うことのほうが、今は耐えがたいのだと、そう言うと、 医者は溜息をついて薬を屑籠に投げ捨てた。


「じゃあ、どうするんですか」


乱暴な仕草と声に思わず目を見開く。医者は苛立たしそうに眉をよせ、私を見つめた。 彼のこんな表情は初めて見る。彼はいつも微笑んでいたから、私はただ呆然と彼を 見つめ返すしかない。彼は、こんな顔をしていただろうか。

「どうするって言うんですか、あなた」

医者が膝の上で手を組む。若い、白くて大きな手。
下手糞な注射でいつも私の腕に痣をつくる、痛めつける 手が、開いて、私の目の前にかざされる。

「どうしますか」

彼の指が私の眦に触れて、浮かんでいた涙を乱暴に拭う。痛い、と思わず声を あげると、慣れっこでしょうと素っ気なく言う。 そうして私の顔を覗き込むようにする。笑みの一切消えた、不機嫌そうな白い顔。 私の顔に触れる大きな手。これは誰だ。

「だってあんた、手しか、覚えてないんでしょう」

彼の目が責めるような色を帯びている。気づいたら、彼の手をとっていた。冷たい手だ。 彼の手を握りしめたまま、私は何も言えないでいる。夢から覚めた時のように汗がでて 体が強張る。震えながら彼を見上げて、それでもこの手が離せない。彼の 顔が一瞬歪んだ。思い出せないならそれで、忘れるなら忘れるでよかったのに、と彼は言う。 辛いくせに、あなたはいつも中途半端だ。

「いつも、僕ばかり。僕だけが、全部、覚えて」

彼の声が掠れて震える。あの時と同じように。
手に力がこもる。ごめん、という言葉が自然に 口から溢れて出た。ごめん、本当にごめんねと繰り返しながら、彼の手を強く 握りしめた。深く俯いた彼の表情はわからなかったけれど、私の手を離すことはなく、 力をこめれば、微かに握り返してきた。

「君の名前を教えてよ」

そう言うと彼は顔をあげ、私の顔をしばらくじっと、眺めていた。 さっきまで浮かべていた、あの曖昧な笑みの面影はどこにもない。痛いくらいに 強い瞳で私を見つめ、私はその唇が静かに開くのを、一瞬も目を逸らさないよう、決して 聞き逃さないように見つめる。

「…やっと見つけた」

彼の手に強い力がこめられた。彼の掌のなか、 彼の新しい名を何度も呼びながら、私はうとうとと目を閉じてしまう。 彼の呆れたような溜息と、力の抜けてゆく体を支える 優しい掌を感じながら、何か月ぶりかの深い眠りにつく。夢はもう見ないだろう。










寝るときそばにいてね




















タイトルは笹川美和さんの「あなたあたし」の歌詞から  とても好きです。
内容も気付けば合わせたみたいになりましたがそうでなくて、 本当の元ネタはこれなのです。(台無しだよ)
これ完全に芭蕉さんですよね。人からのおみやげで悶々としてしまいました。
美味しく頂きましたが、曽良君ごめん、という気持ちでいっぱいでした。芭蕉さん食べちゃって… 芭蕉さんも曽良君に食べられたかったろうに、我ながら本当に罪なことをしたと思います。けしからん菓子ですねまったく!

ともかく何がしたかったかというと、お江戸のバナナが東京のバナナに転生し、同じくお医者さんに生まれ変わってた 曽良君に見ぃつけたっ ってする話が書きたかったんです。これがそうです。なにも言うな わかっているから。

20080718