好きかどうかはともかくとして、恋がなにかはわからない。ついでに言えば愛も
わからない自分はあの人の言うように、冷血で薄情で感情がないのだろうか?ま
さか。それはあの人の口にゴミでも突っ込んで黙らせておくとして、さあだけど
、恋ってなんだ愛って?それがないと感情がないことになるのか?苛立ちは腹立
たしさは呆れは、感情じゃないのか?結局はあの人の言うことを気にしている自
分を恥じるこれは感情じゃないのか?
恋とか愛とかそういうの、わかりませんと言った時のあの人の憐れむような表情
をねじ伏せたいと思うこれは、だから感情には違いないけれど、やっぱり恋やら
愛やらはわからない。好きなもの、嫌いなもの、どうでもいいものの区分けなら
はっきりとわかるのだけど。
だから恋とか愛はともかくとして、好きかどうか、
で言えば自分は間違いなく、芭蕉さんのことは好きだ。でなければあんなののお
守りなんかしない。僕はまだ若いのだ。持ってた可能性全部を捨てて弟子入りし
たのは、それだけのものがあの人にあるからだ。あんなのに…いやだけど本当に
好きだ。ああそうなんだ。癪だけどこれって本当なんだ。好きなんだ僕は、この
人が。とばかりに自覚した瞬間あなたが好きですと伝えたのだけど、あの
人は驚くでなく笑うでなくましてや顔を赤らめるもでなく、しばらく黙ったまま
眉を寄せて僕を見つめ「ええ?」と言ったのだった。
「なにそれ?」
「はあ、だから、あなたが好きだって言ってるんですけど」
「いやそうじゃなくて、いやそれもわかんないんだけどね?そうじゃなくてね?」
「喋り方鬱陶しいです」
「ええ…なにそれ…」
「なんなんですかもう」「いやだから、なんで今それを言うの?」
おかしいよ、とあの人は言い顔をしかめて僕を見つめたが、僕に言わせれば好意
をぶつけた相手にそんなことができるあんたのほうがおかしい。僕を全く信じて
いない目で僕を見つめて僕をおかしいと言う。酷いことをする、と思いながらも
僕は彼が僕を見ているというに喜びを感じている。笑い出しそうだ。自覚した途
端にこの人の全てが愛しく思える。唐突に、この人が好きで好きでしょうがない
、という気持ちでいっぱいになる。「だから君それおかしいって」と彼は言うけ
どはあ?何が?
恋っていうのは楽しくて、なにもないのに笑えたり涙が出たり、胸が熱くなって
、その人が欲しかったり、その人に近付きたくて、だからその人みたいになりた
かったりもして、それで、などと芭蕉さんは一生懸命僕に説明しようとしていた
がそれは、ともかくとして。興味がなかったから適当にしか聞いていなかったし
、なによりその後の話のほうが僕には重要だった。じゃあ芭蕉さんはどうなんで
すか、と聞いた僕に彼は、私は殿のことが好きだったよ、と言ったのだった。
「あれは恋だった」
何故ってあの人に抱かれるのは痛いばかりで苦しくて辛くて憎いくらいだったの
に、それでも嬉しかったから。と芭蕉さんは言い、更には、他の人はそうじゃな
くて、中にはとても具合のあった人もいたけど、それでも虚しい、空々しい気持
ちになるばかりで、あの人とのような暖かいものやってこなかったから。顔を
赤らめ気まずそうに顔を伏せながらそこまで言って、誤魔化すように勢いよくだか
ら曽良君恋ってのはねえ!と話し始めたが僕はもう今度こそ聞いちゃいなかった
。何言ってんだこの人。抱かれて?他の人?何言ってんだ。そんな人だったんで
すかあんた。
瞬間感じたのは本気の軽蔑と凄まじい失望。と、暗い欲。ああこの人ってそう
いう人なんだ。そういう人だったんだそうかそうか、なら。それなら。
芭蕉さんが昔仕えてた人のことは、話に聞いて知っていた。が、そういう世話ま
でしていたとは思わなかった。普通に考えたら当然のことなのに、彼はそういう
こととは、無縁なのだと信じて疑わなかった。というより、思い付きもしなかっ
た。くたびれたおっさんの印象が強いし、なにより彼はあんな生臭いもの存在しない
まったく別の汚れない世界で、子どものような心のまま、ただきれいなものだ
けを見て生きてるのだと思ってたのだ。自分みたいのは生臭いほうの世界で
、それを眺めているだけでよかった。だけど、なら。それなら話は違ってくる。
「わからないんで詳しく教えてください」
芭蕉さんて男もいけたんですか、何人くらい相手にしたんですか、その殿はどん
なふうにあなたに触って、抱いて、あんたはどんなふうに咥えこんでたんですか
。顔を真っ赤にして狼狽えまくる芭蕉さんは本気で気色悪く本気の嫌悪感がどん
どんどんどん増して、見るに耐えないくらいになっていくが、同時に笑いだしそ
うなほど嬉しくもある。なら。それなら。ああ芭蕉さん、あなたがそんななら僕
とあなたは同じ世界だ!あなたがこっちにいるなら手が届く。近付けるし触れら
れる。あなたを想うことだって、できる。あなたが汚いなら。
「芭蕉さん好きです」
なんで今言うの?と彼は言うが馬鹿だな、今だからだ。僕は今やっと
彼を想うことを許されたのだ。神様は崇拝するもので、恋い焦がれて触りたいと
か思うものではないのだ。そういうふうに好きだなんて、想うのさえ許されない
のだ。触れても近付いてもいけないし、そもそも触れられないし近付けないもの
だ。だけど僕の神は今日このように死んだので、今目の前にいるのは神が
かって俳句のうまい、しかし男に脚を開いて生きてきた生臭い人間だ。僕は彼に欲情すること
さえできる。今気付いた。今、こうやって溢れる感情をずっとずっと秘めて、自分でも
気付けないくら
いひたすら押し殺していたからこそ、感情がないなんて言うこの人が許せなか
ったのだ。汚くあれ芭蕉さん。もっともっと生臭く、惨めで卑怯でずるくて淫乱
な最低の人であれ。そんなあなたなら僕でも愛せる。そんなあなたこそを愛して
いる。なるほどつまりはこれが恋ですね!僕はそんなあなたが大好きです愛してます、と言うと
芭蕉さんは疲れたような呆れたような顔で僕を見る。「だからそれ違うと思う…
」
意味なく笑いがこみあげてくる僕は恋を確信してるのだけど芭蕉さんはそんな
ことを言うし、しかも僕の笑顔を見て顔を引きつらせたりするので流石に酷い
と思って思い切り頬をはたく。いったい何すんの!で涙と鼻水で汚く歪む顔。
あー愛しすぎる。
おとしておとしめて愛のため
曽良君が 頭わるくて 嫌だ (私が)
2008.07.11