花のたとえばなし
(彼の言葉は花になってその口からこぼれるのでした)
前を歩く芭蕉さんは時々振り返っては、息をするように花弁を吐いて僕を呼ぶ。
実のように丸い薄赤色の花が、その手にはあふれていた。まともな句を詠んだとき
花びらがすべり落ちるくらいだったのが、今では彼の何気ない言葉ひとつひとつ
に花がこぼれ、それは彼の両手からもどんどん溢れて歩く先に散ら
されてゆく。そうやって彼の歩く道は鮮やかな色に染められる。
芭蕉さんが笑い泣き
歌い、句を詠むそのたび溢れていく美しいもの。風にのって僕の頬をかすめ高く
高く舞い上がり、青空に溶け込んで消えるその瞬間までそれはどこまでも鮮やかに映
る。僕はただ目を奪われ息を整えるばかりだ。
ならば僕は。花の散らばる道、彼の後ろで小さく芭蕉さんの名前を呼び返そうと
すると、黒い羽虫が口から飛び出していった。毒々しい赤色や黒光りした虫がぼ
とぼとこぼれて足元に落ちる。唇を這っていたらしいトカゲが地面に落ちて、生
白い腹を見せもがいていた。
唇に残るおぞましい感触に吐き気がこみあげてきて
僕はその場に立ち尽くす。口を抑えて荒い息を整える僕を振り返り、彼は目を丸
くして慌てて駆け寄ってくる。大丈夫?と言って僕の青褪めた額に触れる、その
時にさえ夾竹桃に似た花がぱらぱらと零れていった。甘い匂い。間近でみる彼の
優しい眦、瞳の薄くて柔らかい色。僕は彼のようにはなれない。彼から隠すため
、咄嗟に踏み潰した百足や油虫の、吐きそうな感覚を足裏に感じながら思う。僕
は彼のようにはなれない。
花の散らばる道を歩く。彼は花を抱えたまま僕を振り返っては微笑んで、曽良君
、と僕の名前を呼ぶ。花はあとからあとから増えていく。そうやって彼から溢れ
て、その手に包まれるものはまさしく彼の心そのものに美しい。だからやはり、
と思い知る、あれらこそが僕の心。虫や蛇や醜悪なもの。あれはその心に見合う
もの。あれは祝福として彼に与えられ、僕には戒めとして意味を持つのだ。子ど
ものように、袂に花を詰めてははしゃいだ声をあげる彼の後ろを、時々花を拾い
あげながら歩く。僕は彼のようにはなれない。言われなくてもわかっている、こ
んなふうにしなくたって、それくらい。
曽良君、とあの人が僕を呼んで、なにが楽しいのか声をあげて笑いだす。赤や白
や薄紅の花びらが風にとばされ吹雪のように僕に向かいくるその中心、彼が花を
抱えて嬉しそうに笑っている。
目を覆いたくなるほどの、いっそ死にたくなるような光景だった。どうして、と
呟く唇から小さな蟻が這い出してくる。どうしてこんなものを見せる。どうして
、こんなことしなくてもわかってるのに。喉で何か引っ掛かってがさがさもがい
て吐きそうになる。こんな心など彼には決して見せないし、彼の心を羨んだり欲
したりなんて、そんなこと、もうとっくに諦めていたのに。もうちゃんとわかっ
ているのに。どうして。彼の名前を呼びかえす、そんなことすら何で許されない
。
曽良君、ねえ見てよ。
芭蕉さんは両腕いっぱいに抱えた花に顔をうずめて、うかされたような声で僕を
呼ぶ。花の表面をまた新しい花びらが転がり落ちていった。顔をあげ僕に歩み寄
る、その一歩ごとに噎せ返るような甘い香りが強くなる。芭蕉さんは花を吐きな
がら、曽良君みて、と僕に笑いかけた。すごいでしょう、こんなにたくさん。き
れいだと思う?ねえ曽良君。
「君にあげる」
そう言って、僕に向かって伸ばされた腕から一気に、色鮮やかな花々が溢れこぼ
れ落ちた。僕の髪に、肩に降りかかって、僕の掌の中に溢れていく。甘い匂いに
眩暈がしそうだ。
「全部全部、君のものだよ」
息をするように、彼の口から花ははらはらとこぼれていく。ぜんぶ曽良君のだよ
と、言葉のたびに増えるそれらは僕の手の中に注がれる。
「だって、君のことを考えてたらこんなに溢れて、止まらなくなったんだ」
僕の掌は彼の花でいっぱいになってどんどん溢れて地面にこぼれ落ちていく。芭
蕉さんは僕の手に自分のその小さな手を添えて、花をうけとめた。だからこれは
君なの。
彼は目を伏せ、子どもが内緒話をするような、密やかで笑みを含んだやさし
い声でそう言いまるで、愛しいものを見るかの様な目で僕だという花を見つめる。
そしてどうか受けて、と僕に目を向けそう言う。花弁を抱える指先に彼の指があた
って、そこだけが燃えるように熱い。震える掌から花はこぼれていく。僕は何かを
言わねばと思い、言いたいと思い、願い祈るような気持ちで口を開きかけるがあま
りの恐ろしさに絶句し口を噤んでしまう。違うんです芭蕉さん。僕はこんなの
じゃあ全然、ないんです。違うんです。僕はあなたが思うような人間じゃないんです。
芭蕉さん僕は、僕は。
堪らなくなって僕は彼の手を掴んで強く握り締めた。僕の手から花が散って地に
落ちる。叫びだしたい衝動はそうして現れるであろう醜悪なもの、それを彼に見
られることへの恐ろしさで塞がれて、代わりに僕は彼の手を強く引き、唇を寄せ、
直接花を口に含みそれを食べた。
柔らかな花を舌でちぎり喉に張り付く花
弁を無理矢理に飲み込む。口いっぱいに広がる甘い甘い甘い甘い匂い。彼の匂い
。彼の掌に直接口をつけ花を貪りながら「どうか」と繰り返し思う。歯があたっ
て痛みに彼が身を震わせても手首を強く掴んだまま放さずひたすら花を飲み込み
続けた。「どうか」
全て食らい尽くしたところで僕はようやく彼の手を放し、今ならと、恐る恐る彼
の名を呼んだ。
「芭蕉さん」 ら、腹の膨んだ蛾が、鱗粉を散らしながら僕の口
から飛び出していった。芭蕉さんが息をのんだ。
体の力が抜けて喉元に虫でも蛇でもない何か熱い塊がせりあがる。顔が歪む。
芭蕉さんは声を失ったように、無言で僕の口元と花に止まる蛾を交互に見つめた。
泣きだしそうな衝動に体が震えるのがわかった。嗚咽の始まる寸前の呻き声で小さな蛇がまた這い出
し、僕はたまらず俯いた。伏せた目の隅で、彼が僕の唾液まみれになった手を伸ばすのが見えた。
それは僕の頬に触れ、そうして彼がその蛇ごと僕に口付けた。
「大丈夫、だよ」
彼の口付けをうけて掌程の蛇が地に落ちどこかへ這っていく。言葉を失って立ち
尽くす僕に彼は、だからちょうだい、と言う。
「それが君ので、私のためなら、なんだっていいんだ」
そう言う彼の顔は青褪め、強張って、僕の頬に触れる手は冷たく震えてさえいるのに彼は
僕を離さない。ぎこちなく微笑むその口から花はまだ溢れ続けている。
彼からこぼれる椿のような花や夾竹桃のような花、僕はそれらを呆然と見つめ、たまらなくなって、
その柔らかな花ごしに彼に口付けてしまう。そしてそうやって口付けを繰り返しながら、
僕は彼のようにはなれないとまた、涙がでるほどに
強く強く思うのだった。
end
20080725