冥 途


高い、大きな土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、 夜の中を走っている。


土手の下の小料理屋で人参葉の酢漬けと自然薯の汁をつまみながら、一人手酌で 呑んでいた。蒸し暑い夜だった。ざらざらした安物の猪口の肌が汗ばんで、指先 を濡らした。
隣りには十人ほどの一連れがいるらしく、なにか食いながら面白そうに話しあ っている。広い座敷は障子で仕切られていて、目の前の障子にかれらの影が暗い 灯に照らされていた。そのうち中でも声の大きな男が「涙のひとつも見せない 」と言った。自分はそれを空耳で聞いた。何の事だか解らないのに何故だか気にかかって、 聞き流してしまえずに考えていた。するとそのうち、ふと、腹がたってきた。 あれは僕のことを言ったのらしい。
障子をじっと見つめても、揺れるたくさんの影はぼんやりしていて、どれが言った のだか解らない。その時、別の声がまたこう言った。楽しいのか 淋しいのかよくわからない、うるんだ声だった。

「それはしょうがない、だって、私のせいだ」

その声を聞いてから、しばらくぼんやりしていた。一人には広すぎる 座敷に正座し、障子を隔てた向こうの楽しげな様子を見るともなしに眺め ていると、時々喉のあたりが詰まるような風になった。僕は箸を置いて酒だけを 口に運んだ。向こうではまた何かいろいろ話し合いながら、そうして時々静かに笑う。 さっきのうるんだ声の男は五十程の年寄りで、その人の影絵が頻りに手真似などをして 連れに話しかけているのが目に映る。けれども、そこに見えていながら、その様子が 僕には、はっきりとしない。話していることもよく解らない。さっき何か言ったようには 聞こえない。

土手の上を時々走るものがあり、その時は店の中に淋しい影が射す。 むこうの一団は黙ってしまって、話していたあの人などは隣の連れと 抱き合うように身を寄せている。僕は一人だからただ手を組み合わせて、 障子の向こうのその影をなんとなく苛々しながら見つめた。
影が通りすぎると、向こうはまたぽつぽつと話し出す。なにを言っているのかはわからないが、 それでも僕はそのしっとりした、しめやかな団欒を羨ましく思う。

障子の一番の下端が他より白く、そこだけ補修したらしいことがわかった。 桜の花弁が薄く透けるような紙を使っていて、影や灯の加減で時々、目にちらちらと 揺れるように映った。僕はそれを見て思い出すものがあった。
そのうちさっきの人も気づいて、静かな笑い混じりに「こんなところに 桜がある」と言った。体を屈めてそれを見て、それからあれはとても美しかったと 言う。連れの人たちが、いつものあれかい、と尋ねた。彼の影が頷いた。

「私ひとりしかいない広い草っ原に、古い、大きな桜の樹が立っていた。見えない けど近くに川の流れる音がしていた。空が青くて、擦れた雲の様子がまたきれいで、 陳腐なようだけど、とても単純で、美しい場所だった。だからあの子にも、 見せたくなってしまった」

彼は大きな身振り手振りでそれを話していた。その影を見て、そして 彼の声がはっきりしてくるにつれ、 僕は彼の言う風景をまざまざと見るような気がしていた。僕は、それを見てはいない のに。
僕は盃も卓に置いて、ただ彼の拙い手真似を見つめた。彼がしみじみとした 調子で、私を見つけるのが本当にうまい子だった、と言った。




隠れるのがうまい人だった。そしてすぐに隠れてしまう人だった。
皮肉や嫌味は平気なくせに、べたべたとおべんちゃらを言われたり、言ったり すると、その場ではへらへらと笑みを振りまいておいて、その日の晩などに姿を消した。 そういう時は庵や宿中をいくら探しても見つからない。襖という襖を全て開け、 蒲団をすべて下ろしてその間を探り、客用の座布団を蹴散らしてみても彼は見つからなかった。 そうしてこちらが疲れてうたた寝をしている間などに、おどおどと出てくるのだった。
荒くなりそうな声を深夜だからと極力抑え、どこにいたんですかと尋ねると、 「ずっとここにいた」と弱弱しく答えて目を逸らす。見え透いた嘘に手を 上げれば、だって本当だもの、と悲鳴混じりに訴えた。

外が真っ白に見えるほどに眩しい、真夏の午後に隠れたこともあった。 普段あまり汗をかかない僕が、狭い庵を探し歩くだけで 着物をじっとり濡らすくらいに暑い日だった。 彼は気がつくと縁側で身を縮こまらせていて、真っ白な顔をして 僕を振り返った。そうして汗まみれの僕を見て、申し訳なさそうに 謝った。ごめんねと言う唇は色を失い、歯が小さく鳴っていた。どこにいたんですか と手を差し出して、ここにいたよと僕の手をとり立ち上がる、その手は 氷のように冷え切って、指先は赤く凍えていた。いつか僕に雪達磨を作って 見せた、あの日のようだった。

旅の最中、雨の降る異様に寒い夜にやはり姿が見えなくなって、宿中を探しまわった 日もあった。その時は中庭に面した外廊下の真ん中に突っ立って、雨水の溢れる鹿威し をぼんやり眺めているのを見つけた。頭を思い切り叩くと我にかえったような顔をして、ここは 寒いね、と言った。手を引いて部屋へと連れ帰る間、彼の手の温かいのと、さっき 触れた彼の髪の、ずっと陽の暖かい光を受けていたような熱を、苦々しく思い返していた。


そのうち、僕は彼のいる場所がなんとなくわかるようになっていった。 寒い日でも少しだけ陽のあたる場所、かと思えば夏の一番暑く眩しい 場所なんかに、彼を見つけることが出来た。見つけるというよりはただそこにいて、 彼が帰ってくるのを待つだけだった。彼の隠れる場所はいつも僕の辿りつけない 、見つけられない場所にあるらしく、そして僕がわかるのは、彼の帰って きたい場所だけだった。それだけでしかなかった。
気がつけば隣に座っている彼が、また見つかったと曖昧に微笑むたび、 殴りつけたいような、泣きたいような、遣る瀬無い気持ちになった。 彼は隠れるのが本当にうまく、僕はいつも見つけられなかった。うまくなどなかった。


またある日のことだった。
風の乾いて、冷たい日で、庭には落葉が積もっていた。彼は前日の句会の最中 いつものようにずっとはしゃいだように振る舞いながら、そうとわからないよう 、ずっとまわりに気をつかっていた。その表情に時々さす陰の具合から、また いなくなりそうだとは感じていた。そうして案の定、朝起きたら蒲団が温かいまま へこんでいて、彼はどこかに消えていた。

襖を開け天袋を開け机の下を覗き、そうやって庵中を一応探し歩きながら、 最後に庭へ出た。 枯葉があちこちに散らばっていて、歩くたび足の裏で乾いた音を立てた。 秋晴れの空は雲ひとつ見えない。 風が強く吹き、枝に残った枯葉がざあと鳴った。舞い上がる砂埃に目の前が霞んだ。
風がいってしまうと、あたりは本当に静かになる。僕は着物の前をかき合わせ、それらの 光景を眺めながら、ここに一人でいる自分というものを強く感じていた。
彼はいま、僕の手の届くどの場所にもいない。そう考えると、ただ自分一人がこの淋しい 場所に同化していくような、永遠に消えもせず、いつまでもここに一人立ち続けなければならない ような、よくわからない感覚に襲われて、その場に立ち竦んだ。底の感じられない空が無暗に 恐ろしかった。目を逸らすこともできず、ただそれを見上げていた。
そのうちふと感じるものがあり、振り返ると、部屋の押入れから微かに物音がして、 部屋に上がり襖を開くと、畳んだ蒲団の上に彼が乗っていた。 そこは最初に開いてみたところだった。いつものことだから僕はもう何を言う気も起らなかった。
彼は足を崩していて、その間の着物の上には、みずみずしい桜の花びらがたくさん積もっていた。 そして僕を見上げ、きれいでしょう、と笑いかけたのに僕は急に 堪らなくなって、微笑む彼を思い切り張り倒した。彼は目を見開いて何か言いたそうな顔をしたが、 唇を噛みしめ、黙って僕を見つめた。僕も無言のまま見下ろしていた。 腹が立ったのだか悲しいのだか、もうよくわからなかった。
彼は黙ったまま押入れから下りると、変なふうに顔を歪め、ごめんねとだけ呟いた。それからあとは もういつもどおりだった。彼が庭に払い落した薄桃色の花びらは砂と落ち葉に 混じって、どこかへ飛んでいってしまった。それだけは確かに悲しい気がした。



障子の隅の桜を見て思い出すのはそんなことだった。
胸のあたりが押し潰されるように重く、僕は大きく息を吐いた。 向こうの一連れはまだ静かに笑いあっている。その中でその人の 影だけがじっとして動かず、俯いたような姿勢でこちらを 窺っているようだった。それを見つめているうち、また息の 詰まるような、喉に重いものがつかえるような気になって、 僕は口を開きかけたまま固まった。僕はその人の 名を呼びたいのに、声が出てこない。 そのうち影が手をふとあげて、障子にぺたりと手をつけた。

「曽良君」

彼が僕の名を呼んだ。小さく籠った声だった。僕は息をのんで立ち上がり、 障子の前に腰をおろすと、その手に自分のものを合わせた。障子越しの 彼の手はなんの感覚も僕に感じさせない。ただざらついた紙の感触 だけがある。
僕は彼の名を呼び返そうとしたがそれは震えて、やはり声にならないまま 唇の中で消えてしまう。彼は合わせた手を撫でるように動かして、近づいたのに どこか遠いままの声で、君は私を見つけるのが本当に上手だ、と言った。 懐かしむような優しい声が僕には堪らなかった。ざらりと、指が障子紙のうえを 虚しく滑っていく。僕は声の出ないままただ首を横に振った。彼が向こうで微笑む 気配がした。


「本当だよ。いつだって、君だけが見つけることができた。わかってたんだ、私」


彼は更に声をひそめて、子供が内緒の話でもするかのように唇を寄せて、 あのね、だって、と笑いを含んだ声で言った。私の帰りたい場所は、 本当はいつだって、君の隣だったから。


「…芭蕉、さん」


ようやく絞り出した声は、だれかの、さあもうそろそろ、という 声にかき消された。 隣の一連れが静かに立ち上がり、外へ出て行く。僕はあとを追おうと急いで店を出たが、 彼らはどこにも見当たらなかった。そこらを探しているうちに、彼らはいつの間にか 土手の上を連れだって歩いていた。月も星も見えない暗闇の中、彼らのいる土手の上だけに 薄白い明りが流れている。僕はその中に彼を見つけようとしたけれど、彼らの影は うるんだように溶け合って、どれが彼だかわからなかった。


「芭蕉さん」


僕は影に向って声を張り上げた。夜風が頬を冷やし、自分の泣いていることが知れた。 芭蕉さん、と僕はもう一度呼んだ。彼らは歩みを止め、こちらを振り向いたらしかった。 僕は土手の下、涙を流しながら彼らを見上げ、まだですかと叫んだ。


「まだ、そっちに呼んでくれないんですか」


いつまで僕は。縋るような言葉は情けなく震えて、消え入るような音となって土手に響いた。 彼らはそれを無視するように背を向け、また歩き出す。芭蕉さん、もう一度 呼んだ僕に、彼がまたあの楽しいのだか淋しいのだかわからない声で、まあだだよ、と 言うのだけが聞こえた。




end









※補足説明※
芭蕉さんを亡くした曽良君のお盆 のような
まわりは蕉門十哲のような最初の声は其角さんのような
芭蕉さんのかくれんぼは神隠し的なようなそんなような
そして最後の台詞は摩阿陀会にちなみたかったような
だいたいそんな…感じ…

20080816