嵐の海に漁船が一隻のまれました。その船に乗っていた者は残らず海へ投げ出さ
れ、たいがいの者は死にました。ただ一人の男を除いて。助けたのは人魚です。海の底に暮らし、水面から顔をだしては人の生活を覗いていた少女の人魚が、男を陸まで引きずりあげたのでした。彼女の名前をさ
っちゃんといいます。さっちゃんは以前から男―銀時といいます―を知ってい
ました。さっちゃんは漁にでる銀時の、普段はふらふらとさぼっててもいざとい
う時は誰よりも頼りになるところや他の漁師たちへのさりげない優しさ、このひ
なびた海を愛してくれてるらしいところなんかも好きでしたが、なにより性的に
好きでした。つまり彼女は彼に恋していたのです。
浜に横たえた銀時を見下ろし、さっちゃんは彼が気を失っているうちに彼と性的
なことをしたいと願いましたがそれは叶いませんでした。二人の体のつくりはあ
まりに違っていて、目的を果たすことはどうしても不可能だったのです。さっち
ゃんは次こそはとかたく決心し、銀時の耳元に口を寄せ私を忘れないで、と囁き
ました。銀時の目がうっすらと開き、海に帰るさっちゃんの姿を一瞬捉えました。
海底に戻ったさっちゃんは、群れから離れて暮らす魔女に人間とセックスで
きる体を下さいとお願いしました。魔女は彼女の何かと引き換えにその器官
を与えようとしましたが、彼女は願いに見合うものを何も持ってはいませんでし
た。こういう場合たいていは声か眼球を差し出すのだと魔女は言いましたが
、彼女は特に美しい声でもなかったし、きれいな瞳はしかし近眼すぎて駄目だっ
たのです。そこでさっちゃんは、悲願を叶え銀時との子どもが出来たあかつきにはその子をさしあげます、と約束しました。魔女は承諾し彼女に必要な器官とそれに伴う脚を与えました。こうしてさっちゃんは陸へと上がっていったのです。
彼女の願いはすぐに叶うこととなります。人の脚に慣れず、裸のまま夜の浜に横
たわる彼女を真っ先に見つけた銀時がその場で彼女を犯したからです。
さっちゃ
んはちょっとびっくりしましたが、それより何より嬉しくてなりませんでした。
痛かったけれど、それも悦びのうちでした。銀時が自分を何度も殴りつけるのも
愛の表現の一つだと思いました。銀時はお前をずっと探していた、会いたかった
と言いながら殴っていたのですから。
けれど銀時は全てを終わらすと、憎々しげ
に顔を歪めて俺はお前に復讐するよと言いました。あの船には銀時の恋人も乗っ
ていたのです。さっちゃんはその恋人を助けなかったことを一晩中責められ
続けました。俺が死ぬべきだったのに、あいつが生きるべきだったのに、俺
はお前を許さないと言って、銀時は彼女を殴り続けました。
さっちゃんは彼
の言うことがさっぱりわかりません。自分が死ぬべきってなんだろう、どう
いうことだろうと思いながら、彼女は銀時の恋人を思いかえしていました。
さっちゃんは勿論知っていました。知っていたから助けなかったのです。気
付けば当たり前のように銀時のそばにいた黒髪の男が、さっちゃんは大嫌い
でした。死んだっていいんじゃない、と思っていました。だから海底に沈ん
でいく彼を、彼女は見殺しにしたのです。人魚はばかですから、こんなふう
に恨まれることになるなんて、本当に夢にも思っていませんでした。人魚の
半分は畜生なのです。
その夜からさっちゃんと銀時は一緒に暮らすようになりました。
銀時はさっちゃんを押入れに閉じ込めて、気の向く時だけ食事を与え、
気の向くたび殴ったり犯したりしました。銀時は死んだ恋人の名前を呼
びながら彼女を痛めつけます。さっちゃんはその間、これを望んでいた
のに何故こんな気持ちになるのだろうと考えましたが、いつも答えの出
る前に気を失っていました。暗い押入れの中で続きを考えようとしても
、やっぱりわからないままでした。
三ヶ月もすると銀時は
飽きたのか、彼女を押入れから引きずり出さなくなりました。ある日さ
っちゃんは銀時が寝ている間、縛めをといて外に出ました。器用なさっ
ちゃんには銀時の縛った縄をほどくことなんて朝飯前だったのですが、
こんなことをしたのはそれが初めてでした。自分は彼といたいはずだと
、さっちゃんは考えていたからです。
彼女は夜の海岸を歩き、三月ぶり
の海を眺めました。すると、沖のほうからさっちゃんを呼ぶ声が聞こえ
ました。高杉でした。高杉はさっちゃんの幼馴染の人魚です。彼は水面
から顔を出し、さっちゃん帰ろう、と彼女に声をかけました。子どもが
できてなくてもいい、俺が代わりに代償を払ってきたから、と高杉は言
います。さっちゃんは暗闇の向こうに目をこらし、高杉の片目がえぐら
れているのを見ました。
帰ろうさっちゃん。もう好きじゃないんだろ?
だからこうして出て来たんだろ?あんなやつのためにさっちゃんが命落
とすことないよ。さっちゃんは「そうか」と思い、海に向かってありが
とうと笑いかけました。
翌朝、銀時はさっちゃんに蹴り起こされました。彼女が手渡しても銀
時はまだ半分寝ぼけていましたが、押し付けられたものに気付くとよ
うやく完全に目を覚ましました。
「ちゃんと育てて」
さっちゃんは脚の間から血を流しながらも銀時を睨みます。
「見てるから。その子に酷いことしたら、殺してやるから」
呆然と腕の中の赤ん坊を見下ろしていた銀時が顔を上げた時には
もう、さっちゃんの姿はどこにも見えません。
肺呼吸のまま海に戻ったさっちゃんは溺れながら、さっきの自分は、
少しは人らしかったろうかと考えています。自分以外の命を、自分よ
りも優先できる人間に、銀時に、これで近づけただろうかと。高杉が
寄ってきて、そうだねと言ってくれました。こうしてさっちゃんは勝手
に満足して死にましたが、同胞である高杉がさっちゃんのために片目
を失ったことにはとうとう考えが及ばないままでした。ただ、彼女が馬鹿だったのです。
end
『人魚姫』
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