イレイザー・ヘッド・サマー
遠くで女の歌声が聞こえた気がしたけど幻聴に違いないから立ち止まらないし振り返りもしない。線路沿いの細長い道は無人のまま延々と続いている。線路の反対側は山で、こっちからは薄暗く見えて涼しそうだ。その中で馬鹿みたいに鳴き続ける蝉の声を聞きながら、無心に足を動かし続ける。
額から流れてきた汗が目に入り、思わず腕に抱いてるものを落としそうになった。抱え直し、それを包む厚地のタオルで手や肘の裏に溜った汗を拭ってからもう一度抱え直す。
「ヤコ」
10歩くらい先を歩いているネウロが振り返りもせず声をかけてきた。
「代わるか」
暑さを感じない魔人の、しっかり着込んだ真っ青なスーツ。その向こうのコンクリートで陽炎がゆらめいている。「いい」と答えると、やはり振り返りもしないでそうかとだけ呟いた。蝉だけが騒ぐ静寂がまた戻る。暑い。熱い空気が鼻孔を通る度に脳が溶けていく妄想がちらちら。汗は流れてタオルがじっとりと重い。それに包まれたものは、けれどいつまでも冷たいままだ。視線を落とすと変色したくちばしが見えた。
ネウロが産んだ私たちの子供は鳥の胎児みたいな姿をしていた。
夜泣きが酷く、ひしゃげた声でいつまでも泣いていた。そのうち鼻がつまったような呼吸をしはじめて、事務所に泊まり込んで看病したけれども少しもよくならないまま死んでしまった。だから今日はその子のお葬式だ。
「こっちだ」
ネウロが立ち止まり、山のほうに向き直った。見ると、整備されたものではないが山の入口になっていることがわかる。ネウロは何も言わず薄暗いほうへ足を踏み入れた。ざくっという音が響く。蝉の声以外の音を久しぶりに聞いた、と思う。それも一歩中に入った途端、一層喧しく響きはじめたけど。
登りはじめてどれくらい経っただろう、ネウロが立ち止まり、「ここだ」と言った。狭い道から急に開けた感じのしたそこは何故か静かで、蝉の音を遠くに感じた。
鬱蒼と茂る木に囲まれた薄暗い空間。ぐるりと一周すると、木々の隙間から少しだけ、小さくなった街が見下ろせる。ネウロが腕の中の子に静かに手を伸ばす。そっと抱き抱えると私を見て、「早くしろ」と言った。文句を言うのも面倒で、黙ってその場に膝をつき、手で穴を掘り始める。昨夜は少し雨が降ったから日陰の土は軟らかい。さくりと指を突っ込むと、ひんやりとした土の匂いがした。
ざく、爪を立てて小石をほじくる。爪の間に土が詰まってゆく。途中ミミズや団子虫が這い出てきたけど気にせずはらいのけて、腐敗したような深い土を掻き出す。ぽたり、額から汗が落ちて、冷たい土に吸い取られる。
ネウロは私に背を向けて街を見下ろしているようだ。ぽたり。これは罰だろうか。ネウロは、本当は、怒っているのかもしれない。ぽた。何の罰?あの子が死んだのは本当にどうしようもないことだった。私のせいだ
と嘆くのは被害者ぶることだ。何の罰?この子はどうして私の腹に宿らなかったんだろう。ど
うしてネウロが孕んだんだろう。ほぐれた土が穴の周りにこんもりと積もっている。何の罰。チョコレート味の土があるというのは本当だろうか。何の罰?遠くの蝉の声、あれはあの子の泣き声に似ている。ならあれは鳴き声だったのか。何の罰。何の罪だ。何の。
「それくらいでいいだろう」
いつの間にかネウロが背後に立っていて、私を見下ろしていた。逆光で表情がよく見えないので私は不安になる。そのまま、タオルに包まれたあの子を私に手渡してきた。軽く、冷たい。深くまで腕を伸ばして、底に静かに置く。醜い干からびた鳥の胎児。泣けたら良いのに。土をかぶせていく。この子ために私は泣けない。この子を直接抱き締めることも、名前をつけることも出来なかった。そんなこと考えもしなかった。せめてこの子が私の子宮で育てば良かったのだ。私は何一つ傷付くことが出来なかった。汚れることさえ。
地面をならし、爪に詰まる土の不快さを意識しながら少し盛り上がったそこを丁寧に整えていく。これ以上手の入れようが無いくらいの円形になり、しょうがないので立ち上がった。手も膝も泥だらけだ。払いもせず出来上がった墓を見下ろす。
ぽたり汗が落ち、墓に染みが出来てすぐに消える。ふと、ネウロが私の手に触れた。手袋を外した冷たい掌で、私の汚れた手を握る。
「貴様のせいではない」
見上げると一瞬目が合い、すぐに逸らされた。その一見無表情の中に、気遣うような色を認めてしまう。
人間に近付いた彼はしかし私だけにその小さな感情を向ける。私にだけ。・・・・・こいつも同じなの。
「ごめんなさい」
気付いた瞬間謝罪の言葉が口をついて出た。俯き、土で隠した子供に向けて何度も謝る。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ようやく流れた涙はどうしたって愛情故なんかではなく。
「ごめんなさい・・・」
一欠片の愛情すらも持たないまま、ここにきてさえお互いのことしか考えず、泥はすでに乾いて剥れかけている。ごめんなさい。ネウロの手を強く握りしめ、無意味と知りつつ泥の手に涙を落とす。歌声はもう二度と聞こえなかった。
end