チェックアウト
グランドホテルの朝は常と変わらないように迎えられた。
優秀なスタッフたちは努めてそのように振舞
った。
本当は、特別室の死体に皆少なからず動揺していたのだ。
またある従業員は、大先輩にあたる客室係が突然姿を消したことに不安の表情を隠せなかった。その人は特別
室の婦人を特に気にかけていたようだったから、ショックを受けたのかもしれない、と若い従業員は考えてい
た。
彼は今夜その大先輩の寮をもう一度訪れるつもりでおり、そしてそこで、何十年も前の、腐って変色し、
本来彼の先輩になるはずだった「赤い箱」を、見つけることになる。
受付係は驚いた。目の前の高校生くらいの少年が、突然声をあげて泣き出したからである。
少年は両手の握り
こぶしで顔を覆って、嗚咽を洩らしている。
「ちょっと、どうしたのよキョン」
少年の連れらしき三人の少女たちもかなり驚いているようだ。一人は大声をあげ、一人はただ目を見張り、一
人はおろおろと困惑していた。少年は血がにじむくらい噛み締めていた唇をわずか震わせ、ばかだ、と呟い
た。ばかだ、あいつはばかだと繰り返す少年に受付係は焦り、さっき言った言葉をもう一度告げるしかなかっ
た。
「申し訳ありませんが、古泉一樹という方はお泊りになっておりません」
少年の涙で濡れた手から、何か赤いものが転がり落ちた。
玄関口にいたポーターは、自分のほうに転がってきた赤い石を拾おうと腰を屈めた。しかしそれよりも手前
で、長い髪のメイドがしゃがみこみ、それを拾い上げた。メイドは下がった眼鏡を指で直しながら少年に歩み
寄り、まだ泣きじゃくる彼の手に石を握らせ、何かを囁いた。少年はそれを大事そうに握り締めている。
そうして歩き去るメイドを、チェックアウトに来た男が呆然とした表情で見送っていた。
白髪の若い男は真っ青な顔でメイドを凝視している。こっちに歩いてくるメイドは素知らぬ顔だ。
擦れ違う瞬
間、メイドの眼鏡にひびが入っているのに、ポーターはようやく気が付いた。
大人しくなり、まわりの少女たちに心配されながら帰っていった少年を見送りながら彼は受付係に近づいた。
大丈夫だった?と尋ねると、受付係は顔色を変えて彼に向き直る。
「おはようございます、総支配人」
うんおはよう、と穏やかに微笑む彼を受付係はしばしぼんやりと見つめ、しかしすぐに表情を戻すと事の次第
を小声で説明した。「なんだろうねえ」とのんびり答えた彼に受付係は胸を撫で下ろし、そして彼の背後の同
僚に気がつく。その視線の動きに彼も振り向いた。
「なにしてんだ、藍染様」
水浅葱色の髪をした男が、泣きそうな顔をして彼を見ていた。受付係は総支配人に向かって何を言うのだと慌
てたが、ふと自分の考えが瞬間決定的におかしい気がして、口をつぐんだ。何故だか、もうずっと昔からいるはずの総支配人
が別人に思えてならなくなって、同僚のはずの男が初対面のように思えたのだ。結局その違和感は数秒で雲散
霧消したが、その間に総支配人はその従業員を連れてどこかに消えていた。死人みたいに白い肌をした客室係
がその一部始終を見て、ひっそりと溜息をついた。
受付係は首をかしげながらも業務に戻る。同じように釈然としない表情をした、白髪の若い男がチェックアウ
トをしにきたのだ。いつもどおりの手続きをする彼の脇を、担架を抱えた同僚が通り過ぎていく。特別室の死
体を運ぶのだろう。彼らの後ろを、金色の短い髪の少女が楽しげについて行く。表で鳥が羽ばたく音がした。
こうして今日もグランドホテルの一日は始まって、過ぎていく。
何事もなかったかのように。
end
最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。
内田百閧フ「青炎抄」で「グランドホテル」 しかもジャンル混在っていう…
私だけが楽しい感じですみません…楽しかったです。
読んで下さった方々に土下座で感謝申し上げます。ひゃっけん先生には土下座でお詫び申し上げます。
異形お題:「グランドホテル」
2008/5/29 摩阿陀会によせて修正 (拍手から)