いちめんのなのはな

すこし背の高い、黄色い花をかき抱くようにして、ペッシは柔らかな地面に横た わった。汗ばんだ頬に泥がついたが構わなかった。花も泥もとても温かった。 花畑の中に身を伏せて、ペッシは兄に見つからないよう息を潜めていた。

近くから 川のせせらぎの音が届き、ペッシは釣りがしたいな、とぼんやりと考える。 昔みたいに一人きり、物言わぬ自然だけを相手にして生きていけたら。
柔らかな花弁に頬をくすぐられながら、ペッシは花の合間に覗く空を見上げた。 雲ひとつない青空に暖かな空気、やわらかい花びらと川の音。こういうものだけ を、大事にして生きていけたら。それは、どれだけ楽なことだろう。

けれどペッシにはそれがもう不可能なことだとわかっていた。ペッシは彼と再会 してしまっていたし、どうしようもなく惹かれて、憬れていた。それはそのため に、こんなふうに彼から逃げ出してしまうほど強いものだった。

実兄へのコンプレックス、と言ってしまえばそれまでだったが、だからといって ペッシはひとつも楽になどならなかった。見捨てられることをなにより恐れてい ながら、そばにいるときはいつも逃げ出したかった。彼の側に立つだけでペッシ は自身の矮小さを常に眼前に突き付けられるような気になるのだった。

花に埋もれ、泥だらけになりながらペッシはぴくりとも動かない。やわらかい風 が吹いて、温かい土と花の甘い匂いがふわりと香った。それはペッシの鼻先を通 り過ぎた途端、急速に色を無くした。鮮やかな黄色い花が茶色く変色していき、み るみる萎れていった。

ペッシを覆い隠していた花々が枯れ、腐りきって地に斃れていく。見つかってし まった、と思う間もなく兄の高級な革靴がペッシの横っ腹に食い込んだ。花畑の 中からあらわになったペッシは、痛みと苦しさに呻きながら泥だらけの体を丸め る。乾いた花弁を顔中に受けながら見上げると、兄は逆光の中で自分を黙って見 下ろしていた。そのようにして見ると容姿の整った彼は、ペッシにはまるで神様 のように見えた。背後で静かに花を老いさせている彼のスタンドも、あのたくさ んの目全部でペッシを裁くように見つめている。

「帰るぞ」と言われて、ペッシはよろよろと立ち上がった。すでに背を向けて歩 き出している兄に置いていかれないよう、懸命に脚を動かす。追いかける先の背 中はいつも通りまっすぐ伸びて美しい。枯れ果てた花々を踏み付け、堂々と歩き 行く兄をペッシは眩しいものを見る目で見つめた。ペッシはそうやって彼につい ていこうと必死で追いかけながら、「だけどおれは、あなたといるのがとてもつら い」と思うのだった。




わたしが一番きれいだった時

100数えたら見つけてね、と言ってジェラードは駆けていった。遠ざかっていく、 おれより小さな頭を未練たらしく見送っていたら、目を閉じて!と怒られた。お れは渋々ブランコの支柱に目をあて、早口に数えはじめて、だけどずるをして、99 までしか数えなかった。

もういいかい、と呼び掛けた声に、返事はなかった。公園中を探し回ったけれどジェ ラードは見つからなかった。公園の外に出て、歩き回ってみても見つからなかっ た。夜になっても、次の日もその次の日も見つけられなかった。
おれはジェラー ドを探す以外のことを全部やめて、ジェラードを見つけようと思った。まわりの 大人たちは諦めなさいと言ったが、そんな奴等はみんな殴り飛ばしてやった。お れは一人きりジェラードを探し続けた。ジェラードを探す以外のことは時間の無 駄だからなにもしなかった。それでもおれはジェラードを見つけられなかった 。おれは落ちぶれた。

おれはすかすかの腹を抱えて、細く薄暗い路地にほとんど這うように足を踏み入 れた。もう四日間何も食べていなくて死にかけていた。こういった路地にはまれ に残飯が落ちている。だから下を向いていたら、なんだか不思議な死体と目が合 った。体中の水分が抜けたような肌をしているくせに、瞳だけは瑞々しいままこ っちを見上げている。顔をあげたら、金髪の男が驚いた顔をしてこっちを見返し ていた。ジェラードだった。ソルベ?とジェラードが信じられないというように 言った。

「ジェラード、それ何?」
ジェラードの背後には化け物がいた。死にかけたおれの幻覚かもしれなかったが 、そいつはもう一人の男に手をかけ、さっきの死体のようにしかけていた。それ が不思議とまったく恐ろしくないのは、そいつがジェラードであることがわかる からだった。化け物としてのジェラードを見つめるおれを、ジェラードがじっと見つめて いる。見えるのソルベ?と尋ねるジェラードにおれは頷いた。

「ジェラードはこいつを見つけてほしかったのか?」
「違うよソルベ」
「おれず っとジェラードを探してたんだ」
「ソルベ、おれは見つけてほしくなんてなかっ た」
「それは嘘だ」

強く言い切ったおれを、ジェラードが睨むように見つめた。後ろの化け物も、か らからになった死体を捨てて、こっちに向き直った。

「お前は、見つけて、と言ったんじゃないか」

ジェラードが泣き出す前みたいに眉を寄せて、そうか、間違えたな、と言った。 ジェラードはばかだな、とおれは思う。 未練たらしいのはお互いさまなのだ。自分から逃げたくせに、こいつだって諦め きれていなかった。
化け物はいつの間にか消えていて、ジェラードは黙って俯い ている。こいつとまた離れたら、今度こそ二度と会えない予感がした。おれは咄 嗟にジェラードの肩を掴んで、言葉に詰まった挙句に「100!」と叫んだ。ジェラ ードは呆気にとられた顔をして、それから赤面するおれに気付くと、声をあげて 笑い出した。




無垢の指であなたの乳房に触れてみたい

狭い部屋はいっぱいに夕陽が差し込んで真っ赤に染まって見える。メローネは壁 にもたれて、あのパソコンみたいなスタンドを抱くようにしてうなだれている。 ベッドの上ではベイビィ・フェイスが何体も群がって、母親を食べていた。ベッ ドから垂れた白い腕がベイビィ・フェイスの動きに合わせてがくがく揺れている 。俺はそれを眺めながら部屋の入口に立ち尽くして、一歩も中に入れない。メロー ネが顔も上げないで、なにしに来たのギアッチョ、と言った。
なにを、しにきたんだったか。俺が黙っていたら、 今おれ色々無理だよと言って、少し笑ったようだ った。本当のことすぎて全然笑えなかった。ベッドの上のあの女は、確かメローネが珍 しく普通に付き合っていた女のはずだった。

メローネは何も信じていないくせに、ことあるごとに「神様」と呟くような男だ った。俺はいつもそれが気に食わず今は更に苛立っていたが、いつものように怒 鳴ることも出来ない。メローネがまた小さな声で「神様」と呟いた。
「神様、俺 は生きているのが恥かしい」



メローネはベイビィ・フェイスをいつもとても慎重に、大切そうに育てていた。 だけどいつも、いつの間にだかいなくなっていて、尋ねると「失敗したから」と 笑うのだった。失敗したから殺すのかと俺が怒鳴ってもこいつはヘラヘラするば かりで、だけど「親だからってそんな傲慢が許されるのか」と言うと、心底驚い た顔をした。

「ベイビィ・フェイスは俺の子どもじゃないよ」
「じゃあ何だよ」

苛々と噛み付くように聞いた俺に、メローネは珍しく真面目な顔をして、静かに 答えた。

「ギアッチョ、あれは俺だよ」

だから失敗したら殺すんだと言うメローネに、俺はあの時も何も言えなかった。 じゃあ、成功したら?という疑問が浮かんだが、答えを聞くのが嫌だった。自分 を上手に育て直すことが出来たら。自分を恥だというこいつが、懺悔のように神 の名を口にするメローネがその時どうするのかなんて、言葉にされたら俺は、こ いつを殺してしまいそうだと思った。

ベイビィ・フェイスに食われている女とは、生前一度 だけ昼食を一緒にとったことがある。くせのない長い金髪は綺麗だったが、笑い 方が下品で食欲が失せた。それに、メローネが席を外した途端に俺の腿に手を伸 ばしてくるような女だった。次の日アジトでお前趣味悪いな、と言うと、メロー ネはにっこり笑い、「そうだろう、俺の母親にそっくりなんだ」と言った。趣味悪 ぃ、としか言えなかった。



その女は今、自分の子どもたちに内臓を食べられている。 メローネが少しだけ顔をあげて、 ベッドの上の女と自分のスタンドを胡乱な表情で見つめた。 そして、「ギアッチョ、俺はどれかわかる?」と妙に平坦な口調で言った。

「なあ、俺はどれだ?どの俺が本当だ?どれなら正解なんだ? 見てくれギアッチョ。俺はどこにいる? それはうまく生きれているか?それはどれだ?ど れなら俺はちゃんと生きていけるんだ?」

そうやって答えなんか挟む間もなく言い募り 、「もういいよ。お前が決めてくれ」と言うと、少し黙ってから、 「もういいよ」と隠れんぼをする子どもの口調で言い直した。 笑っているような声に苛々した。こんなにグロテスクな部屋で、 やつれた顔をした頭のおかしい男が馬鹿にしてるみたいにまっすぐでなめらか な髪を揺らし、俺を見上げている。母が子に静かに喰われていく夕陽の差し込む 赤い静かな部屋。

死ねよ、と俺は思う。
お前が死ねよ。お前だろ。お前がメローネだろ。頭のおか しいお前が、きちがいで変態のお前が。失敗した自分に囲まれてうなだれている お前が。自己嫌悪で死にそうなお前が、鏡の前で笑顔をつくっては身をかがめ嘔 吐するお前が、母譲りの美しい髪をしたお前が、俺に殴られたがって、わざと馬鹿 ばかり言うお前が。俺に嫌われてるから俺が好きな馬鹿なお前が。俺に、本当は そんなに嫌われてなんかないお前が。それを知ってて縋ってくるお前がメローネ で、お前なんじゃないのかよ。

それでも俺は黙っていた。叫び出したい言葉は腹の中でぐつぐつ 音をたてていたが、静かに口を閉じていた。 俺は内から生まれては燃え盛る火を飲み込み続けている。 メローネも黙ったまま、身動ぎひとつしないで俺を見つめている。外はそろそろ本 格的に日が暮れ始めていて、部屋の中は薄暗い。黒い影の中からベイビィ・フェ イスが一体、満腹になったのかメローネに駆け寄って、膝に身をすりよせた。メ ローネは俺から目を逸さないまま、手だけを動かしてそいつの頭を撫でた。ほと んど無意識みたいな動作だった。俺はこいつのこういうところは、本当に好きだ った。

けれど例えこれをしなくなくなっても、俺は別にメローネを見捨てはしないし、 失敗だと言って殺しもしない。失敗だろうと恥かしかろうと、そんなのは俺の知 ったことじゃないのだ。メローネ自身がどう思っているかはともかく、俺にとっ てはメローネは出会ったときからずっとこうで、なんだかんだ言いながら、俺た ちは今までずっとそれなりにうまく付き合ってきたのだ。それが全てだ。
俺はそういうことを、今この瞬間にこそメローネに伝えるべきだと思ったが、 開きかけた口を、結局は閉じてしまった。口に出した途端にそれは嘘臭く、 白々しいものになってしまう確かな予感があった。
俺は足りない言葉や、齟齬を 含む言葉を妥協して使うよりは、ただ黙っていることを選ぶ。 俺は俺の頭の中のことぐらい正しい言葉で伝えたい。正しく、 足りなくも多すぎもしない、そのままのそのままを、ひとつの齟齬 もなく伝えたい。 メローネはそんな俺を、 めんどくさいなあ、と笑うけれど。
だけど俺は、その時のメローネが その実、まぶしいものを見るような目で俺を見ることを知っている。そして俺は だからこそ、そう有り続けようとしている。俺が伝えたいのはそういうことだ。 それらを表現する正しい言葉を、俺はもうずっと探し続けている。



暗くなった部屋にずかずか上がりこみ、「帰るぞ馬鹿」と言ってメローネの腕を 力任せに引っ張り起こした。言葉以前の思いは腹の中に溜まり、 その上澄みにもならない言葉だけが口をつく。
帰るぞ、と ただそれだけを言う俺は、苛々を募らせながらも 「いつか、俺の頭の中の全てを、こいつに伝えることが出来たら」と 考える。
もし、すべてのすべてが、なにひとつ損なわれることなく、伝わるのなら。
そしたら、こいつはもうきっと、あんな声で「神様」なんて呟いたり しないのに。

しかし俺の手をとるメローネは暗い瞳をしたままぎこちなく微笑み、 俺は怒り混じりの暗澹たる思いに顔を歪める。
「すべてのすべてを、 なにひとつ損なうことなく」?

死ぬまで無理な気がした。





身捨つるほどの故郷

「臭う?」

男はイルーゾォの足元にうずくまり、訳がわからないといった様子であたりを見回 している。そしてことごとく文字の反転した看板に気付くと目をむき、 ひどく怯えた顔をした。
「なあ、臭うかな?」
そう言って、混乱する男にイルーゾォが「正直に言えばこ こから出してあげるよ」と微笑みかけると、男は震える声で「別に、なにも」と 答えた。イルーゾォはそう、と言って男を殴り飛ばした。そして倒れた男に側溝 を咥えさせ、頭に足をかけると、そのまま勢い良く踏み付けた。男の歯が折れる 音がした。

「…こんなに臭いのに」

男の頭が地面に落ちて、ぴくりとも動かなくなった。地に俯せた男の顔のあたり から血が流れだして、ゆっくりと広がっていく。イルーゾォは顔をあげ、鏡の世 界の偽者の、書割のように真っ青な空を睨み付けた。そして唇を強く噛み締め、 こみ上がる吐き気を堪えた。



イルーゾォは自身を軽蔑している。
それはなにより自分のスタンドに対して向け られていて、プロシュートに「暗殺なんだから当然だし、そこが良いんだろ」と 至極まっとうなことを言われても、イルーゾォはマンインザミラーの陰湿さを恥 じることをやめられなかった。自分の世界に引き込んで無力化して殴り殺すだな んて、弱い者がする弱い者苛めだ、とイルーゾォは思っていた。しかしそんなふ うに恥じる自分がまた恥ずかしく、みんなに悪い気もしていたから、プロシュー トには「そうだよな」と言って笑って頷いて、恥は自分の内にしまいこんだ。自 分のスタンドを誇りとする仲間たちが、イルーゾォは羨ましかった。

イルーゾォは鏡の中に常に腐臭を感じている。初めて殺した人間を、鏡の外に捨て 損なったせいだ。あの死体が今頃どこかで腐って、この閉ざされた鏡の世界に充 満しているのだ、と思っている。しかしその後引き込んで殺した者たちに尋ねて も「何も臭わない」と言うので、どうやらその臭いはイルーゾォだけの感覚らし かった。それでもたまらなく不快で、今からでも捨ててしまいたかったが、初め ての殺しに動揺しすぎて慌てて逃げ出したから、どこに放置したかも覚えていな い。ただ死体の頭から溢れた脳髄と、死体が死ぬ前に吐いたものと、自分の吐い た昼食が混じる物凄い臭いだけが、未だイルーゾォの鼻について離れない。イル ーゾォは自身の分身であるその世界に一人立ち、やまない嘔吐感にいつまでも堪 え続けている。



ある日、ホルマジオが怪我をして戻ってきた。リトルフィートを使って仕事をこ なした直後、猫に鼠と間違えられ、捕まったらしい。すぐにスタンドを解除 したため命に別状はないものの、腕と背中に受けた傷はそれなりに酷かった。が 、怪我の理由が理由なものだから、メローネやプロシュートはげらげら笑いなが らホルマジオをからかった。猫ってお前、鼠って、お前!

爆笑するメローネたちに顔を引きつらせ、怒りと痛みで拳を震わすホルマジオ にリゾットはさすがに気の毒だと思ったのか、イルーゾォにマンインザミラーの 中で安静にさせるよう言いつけた。イルーゾォはためらい、断ろうとしたが、結 局はリーダーの命令ということで了承せざるを得かった。俺も俺も!とはし ゃぐメローネを押しとどめながら、イルーゾォは複雑な心境で、ホルマジオを鏡 の中に迎え入れた。



「あー静かだ…」
マンインザミラーの中の部屋で、ホルマジオは溜息をついた。壁にかかった鏡の 向こうでは、メローネやプロシュートがにやにやしながら覗き込んでいる。それ に舌打ちしてベッドに横たわり、伸びをするホルマジオは安心しきって見えた。 イルーゾォは、やはりホルマジオにもこの臭いがわからないのだ、と思い、ひそか に息をついた。

「イルーゾォ、悪いな」
「気にするな。けど、治ったら早く出てってくれよ」

そう答えたイルーゾォに、ホルマジオは眉を寄せた。感じ悪くとられたよな、と 思ってイルーゾォは少し悲しくなった。違うのだ。確かに、自分のこの世界にチ ームの奴がいるのは耐えがたい気がする。一刻も早く出ていって欲しいと思う、 けれど、それはイルーゾォが仲間を大切に思うからだ。好きで、嫌われたくない からだ。初めて一緒にいたいと思える人たちだった。自分みたいな人間に、初め て出来た居場所なのだ。彼らには、もう気付かれているとしても、それでも 、こんな腐臭漂う汚いところは隠しておきたかった。
イルーゾォはホルマジオと あまり話したりはしなかったが、キレるギアッチョや尊大なプロシュートにも「 しょうがねえなあ」と笑って済ます、そんなおおらかさに少し憬れていた。自分 にはないものだった。
だから、例えホルマジオにこの臭いがわからずとも、もし、という思いがイルー ゾォをおかしいくらいにびくびくさせる。イルーゾォはホルマジオと目を合わせ ることも出来なかった。ホルマジオはその、彼のいつも以上に陰鬱な顔を見、本 当に悪かったな、と嫌味でなく言った。イルーゾォは余計に辛かった。気まずい 沈黙が下りる中、不意に、メローネの呑気そうな声が響いた。

「イルーゾォ買ってきたよー。あとついでにこれ、お見舞い」
イルーゾォが振り返ると、鏡の向こう側でメローネが包帯の入った袋を腕に下げ 、その手で酒瓶を握って立っていた。空いた片手で、おーい、と鏡の表面をノッ クしている。イルーゾォが、ああ、と頷いて鏡に近付き手を伸ばし、受け取ろう とした瞬間、メローネがその腕をさっと掴んだ。

「わ、ちょ、メローネ!」
「なんだよ〜俺にも一回くらい中見せろって!」

けらけら笑うメローネは、すでに半分入りかけた酒瓶と一緒に、イルーゾォの鏡 の中に入ろうとしている。イルーゾォは酒と袋を掴むと、「メローネは、許可、 しない!」と大声で叫んだ。メローネの体が鏡から離れて、向こう側に倒 れた。ほっと息をつくイルーゾォに、メローネはケチ!と言って口を尖らせる。 俺だって見たいのに、ホルマジオばっかり、ずるい!

弾みで落としかけた酒瓶を慌てて抱え直し、イルーゾォは鏡に背を向け、大きく 溜息をついた。メローネの、自分とは正反対のテンションや操な奇行がイルーゾ ォは嫌いではなかったし、今のだって悪気はないのだろうが、正直これだけは、本 当に迷惑だった。そんなに安々と見せられない。腐臭が充満してるのだ。えず いて涙が出る。いれられない。しょうがねえなあ、なんて、俺はそんなふうに笑 っていられない。色々なものを飲み込んで、イルーゾォはもう一度、今度は小さ く溜息をつき、俯いていた顔をあげた。うるさくして悪い、と言ってホルマジオ にぎこちなく笑いかけると、ホルマジオはなんだか思案している様子だった。

「傷痛む?包帯替えるか?酒もあるけど」
「や、じゃなくて。イルーゾォ、お前次から、俺と組まねえか」
「は、」

何を急に、と呆気にとられるイルーゾォに、ホルマジオは一人で勝手に頷いてい る。

「そうしようぜ。そしたら俺、もうこんな馬鹿みたいな怪我しないで済むだろ」
「え、なん、で」
「お前のスタンドって、お前が許可したものしか入ってこれねんだろ?で、許可 したものならなんでも入ってこれる」
「そうだけど…」
「つまり俺がどんなに小さくなっても、鏡に逃げればいいんだよな」
「え?」
「だから、敵の目にも、お前の目にもとまらないくらい小さくなっても、お前が 許可さえしてくれてたら逃げ込めるんだろ?すげーだろそれ。次から頼むわ」
「え、あ、でも」
「ああ?…ああまあ、嫌ならしょうがねえけど」
「な…嫌じゃない!」

イルーゾォの大声と、必死な顔にホルマジオは一瞬ぽかんとして、それから笑い 出した。おう、よろしく頼むわ!と快活に笑う彼に、 イルーゾォは慌てるあまり、子どものように「うん!」 と大きく頷いて、またホルマジオを笑わせた。イルーゾォはなんだかとても どきどきしていた。そうだろうか、そうなのだろうか、という言葉が頭の中をぐ るぐる巡っていた。手のひらに汗がにじんで、イルーゾォは自分がもう随分と久 し振りに、期待を、感じているのだとわかった。イルーゾォは頬を紅潮させなが ら、そうだろうか、ともう一度考えた。そうなのだろうか。自分は仲間を、助け ることが出来るのだろうか。守れるのだろうか。
イルーゾォはマンインザミラーを自身の卑しさの現れだと思い、陰湿だと恥じて いた。けれどそれで、仲間をかくまって、助けることが出来るのなら。守れるの ならそれは、きっととても、誇らしい。

イルーゾォがそうやって胸を震わせている間に、ホルマジオはいつの間にかさっ きの酒をあけていた。飲もうぜ、と言って真っ赤なそれをグラスに注ぎ、もう ひとつ空のグラスを、イルーゾォに差し出した。イルーゾォは普段、鏡の中で飲 み食いしない。吐き気がするからだ。しかし今日は違った。イルーゾォはためら いつつも手を伸ばし、ホルマジオからグラスを受け取ると、神妙な顔で酒を受け た。なみなみ注がれた酒の色にイルーゾォは血を思い、けれど、黙ってそれを飲 み干して、うまいな、と笑った。

「いやお前、なんのために注いでやったと思ってんの」
ホルマジオが呆れたように半端に持ち上げたグラスを揺らして、イルーゾォは慌 てて、ごめん、と謝った。ホルマジオは「しょうがねえなあ」と苦笑して、イ ルーゾォの空けたグラスにもう一度酒を注いだ。

「じゃあほら」
「うん、ホルマジオの回復祈願に」
「ん、あと鏡ん中初体験記念に」
「…あと、コンビ結成記念」

イルーゾォが目を伏せてそう言うと、ホルマジオは一度目を丸くして、それから おう、と大きく頷いた。

「乾杯!」

勢いよくグラスを合わせ、イルーゾォは今度はちゃんと味わって酒を飲んだ。腐 臭はまだするけれどもう気にはならなかった。あとでメローネもここに呼ぼう、 とイルーゾォは思った。そして舌を焼くような辛めの味や喉元を降りていく熱さ をしっかりと感じながら、自分は今こそようやく、仲間たちと対等に酒を飲み交 わすことが出来るのだ、と考えた。






永訣の朝

いとこの子に会いに行くので、土産を用意しようと思った。繁華街に向かって歩 いていたら、交差点のところで男が二人ぴったりくっついて立っているのが目に とまった。できてるのかなと思ったら、金髪のほうが俺を見て「ああ、見つかっ た」と言った。黒髪のほうも俺を見下ろし、「さすがに早いなあ」と微笑んだ。 怖い顔だったけど、そうやって笑うと優しそうに見えた。二人は磁石のようにく っついたまま、先に行っているよ、と言って去っていった。



玩具売り場で、あの子に持っていくおもちゃを探している。ずらりと並んだ人形 をひとつひとつ眺めていたら、柄の悪そうな格好をした坊主頭の男の人形がなん となく目にとまった。手を伸ばしたら瞬きをして、俺を見上げてにやりと笑った 。

「オレにする気か?」
そう言って伸びをし首を鳴らして、ははっと冗談ぽく笑った。それから陳列棚か ら飛び降りると、「ガキの相手はもう勘弁してくれ」と言ってどこかに走って行 った。



トイレの洗面所で手を洗い、顔をあげたら、髪の長い男と目が合った。あまり健 康そうではない青白い肌をして、鏡の中から俺を見返している。
「汚れは落ちた?」
俺は首を横に振って手を洗い続ける。流れていく水はいつまでたっても真っ赤な ままだ。
「皮が剥けてしまうよ」
男はそう言うと鏡の中から手を伸ばし、蛇口の水を止めた。それから俺の手を握 って、だけどおれたちは、そういうあなたがいたから生きていけたんだよ、と言って、悲しそうな顔で 微笑んだ。草食動物のような優しい瞳がなんだか痛ましかった。男の手は内側か ら燃えて、溶けてしまいそうなほどに酷く熱い。



土産を見つけられないまま店を出たら、前を歩いていた男がなにかを落とした。 拾って渡そうとしたら、受け取る腕で殴られた。俺の拾い上げた、男の右腕がま た、勢いよく地面に転がった。男は全く気にした様子もなく俺を睨み付けてくる 。
「足切られたぐらいでスタンド解除してんじゃねえよ」
このマンモーニが、と吐き捨てて俺を蹴りあげようとする男を、兄貴そのへんで 、と体の大きいのに気弱そうな男が、困った顔をしてなだめている。

「あんまチンタラしてんなよ」

そう言い捨てて、男は去っていった。後ろの男が「兄貴、腕!」と男の腕を拾い あげて慌ててついていく。前を行く男は振り返りもしない。大丈夫か?と聞いた ら、「ああ、もう、辛くはないんです」と言って、なんだか誇らしげに笑った。



いとこの子の通う小学校の校庭にはたくさんの子どもがいる。金色の長い髪の男 が、子どもたちと遊んでいた。
「かわいいだろ?」
にこにこしながらそう言って、抱いている子を俺に手渡した。子どもは俺の腕の 中でかたかた姿を変えて、赤いミニカーや色とりどりの積み木になってはけらけらと 楽しそうに 笑った。残るものはあまり、と言ったら「あーお菓子とかのがよかったかな」 と言い、それを聞いた子どもがまたロボットだった体を分解し始めた。少し慌て たら、横から来た男が「困ってんだろが、ボケ」と言ってくれた。だいたい食い 物とか、無理だろそれ。えーそんなことないよ、俺を、俺の子どもたちをなめないでよと 、二人は楽しそうに話をしている。その間にも、後から来たくせ毛の男の手の中 で、氷の塊がみるみる形を変えていく。

「ほら、これ持っていけよ」
手渡されたのは氷の花だった。透明な花びらがいくつも重なって、丸みを帯びた 優しそうな花だ。
冷たいそれを両手で抱えて、ありがとうとお礼を言った。早くしないと溶けるか らなと言い残し、二人も行ってしまった。




俺に気が付いて、あの子が「お兄ちゃん!」と嬉しそうな声をあげて走り寄って きた。氷の花を渡すと、冷たくて綺麗と言って、とても喜んでくれた。そして氷 で濡れた小さく柔らかな手を俺に差し出して、一緒に行こう、と言った。俺は首 を横に振った。

「どうして?僕ずっと待ってたんだ。お兄ちゃんと一緒に行きたい」
「ごめんな。一緒には、そっちにはいけない」
「どうして。お兄ちゃんなんにも悪くないよ」
「悪いよ。たくさん人を殺した」

俺がそう言うと、だけど、でも、と言いかけて、結局泣きそうな顔になって口ご もった。そうして躊躇いがちに、僕を恨んでいる?と言った。 どうして、と俺が驚いて聞くと、「お兄ちゃんの人生を復讐で台無しにした」と言 って俯いた。

「俺はなんにも、ひとつも後悔していないよ」

子どもの透明な瞳が、俺の言葉に嘘はないだろうかと じっと見つめていた。俺は安心させるように微笑み、頷いた。 子どもの手の中で氷の花はどんどん溶けていく。

「溶けるまで、なくなるまで待っていろよ。もし見つかっても、俺からもらった ことは黙っていろよ。俺なんかと友達だと知ったら、お前まで悪く思われてしまう かもしれない。消えてしまうまで待ってるんだ。お前と俺とは、行く場所が違うんだから」

ぽたぽた滴を零し続ける氷を抱いて、あの子が真っ赤な顔で手を振った。俺は 同じように振り返し、仲間の向かったほうへ歩き出す。俺は嬉しかった。
一歩進むごとに日は落ち、空は暗くなる。二度と朝の来ない、夜だけの国が 眼前に迫る。お似合いだ、と思って、俺はすこし笑った。 暗く湿った、なにか恐ろしい悲鳴の響き続けるほうに、俺はまっすぐに、安らいで向か うことが出来る。どんな責め苦だろうとなんでもないと思った。あいつらの待っ ていてくれる場所へ、俺は誇りをひとつ抱えて一歩、足を踏み入れる。









ギアメロのタイトルは山本太郎

20091108