窓の向こうで蝉が鳴いています。図書室はよく冷房がきいているけれど、窓から
熱い陽射が差し込んで、手が少し汗ばんできました。読んでいる本の指で押さえ
た部分がふやけてきそうで、僕は本を閉じました。確か、小泉八雲の雪女の話だ
ったと思います。何度も読んだ話ですがあんまり暑いので、少しでも涼をとろう
と思ったのかもしれません。それにもう、学校の図書室に僕の読んでいない本は
一冊もありませんでしたから、何を読んでも同じことです。
図書室には僕しかいなくて、僕がページをめくる音と遠い蝉の鳴き声以外、何の
音もありません。無音というのは却って煩く感じるものですから、これが最適な
静けさだと僕は思います。本を閉じてしまうと、また一層静かになりました。蝉
の少し離れた喧騒に耳をすまし、この素晴らしい読書環境に僕は身震いするほど
でした。
だけどあまりに人の気配がないので、それは僕にとってこの状況を壊す邪魔者が
いないという、この上なく喜ばしい事態なのですが、さすがに少し妙に感じて、
窓のほうに歩みよりました。見下ろす校庭にはいつもの野球部員も皆無、学校の
まわりをランニングする他の運動部員も、今日は全く見当たりません。よくこの
あたりを散歩している近所のお婆さんやじゃれあいながら下校する小学生たちも
いない。窓枠に肘をかけ、いろいろ眺めているうち、ようやく校庭の木の下に先
生を見つけました。強い陽射で出来た濃い影のせいで最初見つけられなかったの
です。
僕は図書室を出て階段を降り、昇降口で靴を履き替えて先生のところへゆっくり
向かいました。陽炎ゆらめく真っ白い校庭には、やっぱり先生以外誰一人見えま
せん。先生は大きな木の下に膝を抱えて座りこんでいて、すぐそばまで近付いて
も俯いたままです。
どうしたんですか先生、といつものように笑いかけると、ようやく顔をあげ、真
っ白い顔をこっちに向けました。真夏の明るい日差しの中で見ると、先生の顔は
ほとんど病人のように蒼白い。それを見下ろしながら、また絶望したのかな、と
僕は思いました。その木は先生がよく首を吊るために使う木だったのです。先生
が渇いた唇を開きました。
「久藤君は、ずっと図書室にいたのですね」
そうですと答えると、先生は「君らしいです」と言って、少し笑いました。そし
て、あなたが本を読んでいるうちに、世界は全部終わってしまいましたと、静か
にそう言います。
「みんな死んでしまいました。残ったのは僕と久藤君と蝉の声くらいです」
声ですかと聞くと、先生はもたれかかっている木を少しだけ仰ぎ見て、そうです
、と頷きました。
「ほら見て下さい、こんなに五月蠅いのに、蝉の姿はどこにもないでしょう。声
しか残らなかったんですよ。きっとあと一週間で、これも消えるのでしょうね」
先生はいつものように少しだけ目線を逸せながら、「あなたと私だけです」と言
うと、また膝に顔を埋めてしまいます。僕は木を見上げて蝉の姿を探しましたが
、葉がたくさんの影を作っていて、先生の言うことが本当かどうか、よくわかり
ませんでした。
先生あれ言わないんですか、と僕は聞きます。先生は顔を膝に押し付けたまま、
くぐもった声で絶望した、と言いました。
「絶望した、世界の終りに絶望した」
これで満足ですかと投げやりに言って、だけど先生はいつものように死のうとは
しませんでした。それに僕は、先生なら、「皆を差し置いてこんな自分が生きの
びてしまったことに絶望した」とかなんとか、そんなことを言うのだと思ってい
たから、少し意外な気がしていました。
正直にそう言うと、先生は顔をあげ、なんだかきょとんというかぽかんというか
、そんな表情をして、少し首をかしげながら、「それは、だって」と言いかけま
した。その先は、先生の腕が片方どさりと落ちて途切れてしままったのでわかり
ません。先生の左腕は地面に落ちると砂のようになって、すぐに散っていきまし
た。先生が、ああ、と呻き声を上げて、僕はその声をとても好ましく思いそれ
は本当に、胸が震えるほどでした。体を砂にしながらああ、と呟く先生を抱きとめ
たのは、だからただその声をよく聞くためです。そして先生は間近の僕の顔を初
めてまっすぐ捉えると、絶望した、と呟きました。
「君を、こんなところに、一人で置いていくことに」
そう言って先生は砂になって風に飛ばされて、僕は先生を抱きとめた姿勢のまま
、しばらくじっとしていました。蝉だけがまだ鳴き続けています。
閉じ込める夏
20080612