森に囲まれた円形の大地、その中心に建つ城と庭。それがジル・ド・レェ伯の思索の国であった。
彼は自身の成長と発展のためにこの世界を頭の片隅に創り上げた。睡眠中であれ食事中であれ、また戦争の真っ只中、戦況を読み策を巡らし、戦略に全神経を注ぐ最中であっても、彼が脳内に独立させて生み出したこの国では哲学や芸術についての思索がそれぞれのペースで淡々と続けられる。

それは常時自動的に行われる。担うのは国民たちだ。かれらは皆ジル・ド・レェの見知った人間の姿を象られ、それぞれ自身の研究のテーマ……それは例えば「選択」であったり「儀礼」であったり「ステンドグラス」であったり……について、仮初の脳を働かせ続けている。かれらは自身がそのような「象徴」であることを知らない。世界のどこかのある国に生きる、ひとりの生身の人間であるとそれぞれ信じている。実際に現実を生きるのはこの国の外殻たるジル・ド・レェだけで、あとは皆彼の頭の片隅に走る信号のひとつでしかない。それでもかれらが自身を生身と信じ、ただの人のように生活する……ように、「設定」されているのは、そのほうが思索の質も速度も高まるからである。むしろそうでなければ思索は動かず、停滞して死ぬのみと言い切っても決して言い過ぎではない。あらゆるひらめき、アイディアの種、その思索は、人々の日々の営みの中にこそ生まれ、発展し得る。この脳内の世界を完成させる以前からそれくらいは承知していたジル・ド・レェは、だから自身の思索の象徴たちに人の姿を与え、生活環境を与え、人間の営みを模倣させるのだった。

国民は皆ジル・ド・レェの生家を模した城に住む。石造りの廊下を顎に拳をあて俯き加減に歩きまわりながら、或いは図書室の中分厚い本を抱え、テーマのとなりあう研究者と談笑しながら。厨房の裏手では幼い兄弟の姿をした「時間」と「存在」が真昼の日の光を浴びながら子犬のようにじゃれあい、それを「語らい」を担うふたりの母たる料理長が目を細めて見つめている。庭師たちが「自然美」について模索しながら手入れしたつるばらが影を落とす中庭では、白い塗装のささくれだつ日焼けしたイスから腰を浮かせる勢いで「偶然」と「法律」の学者が対立意見に口角泡飛ばし、ひと息ついては、メイドたちがうっそりと「隷属」をもの思いながら淹れた「嗜好」の象徴たる茶でその口を潤す。そのようにしてかれらは思索を深め、交え、ひらめきを発展させ、これぞという答えに近づくたび、それを本体のジル・ド・レェの脳に供給するのだった。

この国には「外」がない。庭の木立の向こうには空も地も、また人の手のはいった道も覗いているし、城郭の高い窓からだって城門の向こうに伸びるその、「商人や旅芸人の一座が訪れる際に通る道」が確かに見下ろせる。ただし商人も旅芸人もその道を通って城にやって来たりはしない。彼らはある瞬間に「外からやってきた」という簡易な設定を付与され城内に発生した新たな思索の象徴に過ぎないからだ。或いはすでにある国民の研究を促す活性剤としての役割、ただそれだけとして機能し、正しく作用した後は「城門を抜け外に出て行く」。かれらの向かう先はこの城と庭の外に広がる本当の無意識。現実世界のジル・ド・レェの肉体と、意識と、脳髄の片隅で普段は意識されぬまま機能しているこの独立国の合間を埋める、本物の、無限の虚無。こちら側から見るそれはだから、ただの書割でしかない。国民たちも「外」を認知することは出来ても、城門の向こうへ出て行くことは出来ない。そもそもそのような発想を持つことはない。

ともかくここはそのような閉じた、狭い、なにひとつ現実の質量を持たない世界であって、「私」はその国の王だった。
姿は外殻たるジル・ド・レェそのものを模しており、私だけがこの国の在りようを知っている。自分がジル・ド・レェの分身であること、そのような虚像であることを知っている。私に課された役割は思索ではなく、意識と無意識を繋ぐいわば仲買人のようなものだった。ジル・ド・レェが現実の学者や錬金術師たちから聞きかじった方法で意識的に脳内に創造されたこの国は、完成してしまえばほぼ表層に浮かぶことはなく、意識の外でその機能を続ける。私は私の民から研究の報告や、子どもや使用人の姿をした者たちのつたない話、そして仮初の五感で感じ取るこの国の在りよう、漠然とした総体を、手におさまるほどの「思考」や「アイディア」のかたちに整え、城の片隅にある打ち捨てられたような古い井戸の底へそっと沈ませる。そこだけが現実のジル・ド・レェの意識へと繋がっているのだ。彼が寝しなや休息中、退屈な食事会なんかの折にふとその井戸の形状を思い描き、この国の存在を意識の上へと浮かべるとき、彼は我が思索の民々の研究成果を自身の理解のうちにおさめるのだった。

王とは名ばかりの、使い走りのような存在ではあっても、私はこの虚像の世界も国民たちもすべて愛していた。もちろんそれは与えられた「愛する」という設定であって、現状を不満がるような人格など付与されるはずもないから当然ではあるのだが、だからこそ、その充足は完璧なものだった。この仮初の国にも幾分簡略化はされているものの季節の巡りがあるし朝も夜も訪れる。その毎朝毎夕に、私は城の自室の窓からこの国のすべてを見渡す。すみずみまで手入れされた広大な庭と、歴史を感じさせる重厚なつくりの、広く迷宮のように深い城。入り組んだ作りになってしまっても、太陽が隈なく行き渡るよう何度も考えて設計し直された、明るい光に満ちたジル・ド・レェの「理想」を体現する城。
「こうありたい」という願いを込めてつくられたから、暗いもの禍々しいもの不吉なもの悪しきもの、見たくないもの、それらはまとめて地下牢に放り込まれ、地下へ続く階段は最初からどこにもない。ここはジル・ド・レェの頭の中の、理想の思索の国なのだ。「戦い」における哲学を己に問い続ける老戦士がいて、「眼球」の可能性を研究する儒人がいる。「比喩」を体言する籠いっぱいの透明な昆虫と、その世話に明け暮れる「批評」の医者たち。「母性」の象徴者たる肌のとろけそうに白い女はジル・ド・レェの古い記憶に残る母そのものの姿をして、常に柔らかく目を閉じ微笑んでいる。「贖罪」について思索を重ねる憂いがちな若者と、彼がひそかに恋する「瞬間」を研究する目元の明るい聡明な女。編みあげた髪の束を後ろに流して廊下を駆け抜ける幼い「オペラ」に、食堂の隅で卵を食べる「継続」の老婆。中庭に咲き乱れる「赤」の薔薇の下では討論好きの「法律」がまどろんで、城の敷地内にある教会には神に祈るあどけない少女がいる。私はこの神に語りかける少女のことを殊更深く、愛した。

「共に祈りましょう」

そう言って、少女は私に微笑みかける。我らの創造主は聖書にある神などでなく、ただの、本当なら王ですらないただの貴族の男ジル・ド・レェであることを知りながら、それでも神の像の前で少女と並んで膝を折り頭を垂れるとき、私は心底満たされ幸福だった。祈ることも、語りかける言葉も持たない私が信心深げに目を閉じて思うのは「真実」とか、「本物」とかいった言葉だった。現実、真実、意識、肉体……それらに一体、なんの意味が? 今ここにある幸福にそれらに勝るというならばその理由は? その必要は? ありはしない、そんなものは。ここには求めるすべてがある。ここのすべてが私のもので、ここが私の真実だった。
私はこの少女にだけは自分を王などと呼ばせず、気安い呼称を求めた。国で一番明るく清い光に溢れた教会の中、少女ははにかんだように笑って、ではジル? と私を呼んで手をさし伸べた。仮初の胸に歓喜が満ちた。
私がこうして彼女を殊に愛するのは、現実を生きるジル・ド・レェにとっても彼女が特別な、ともすれば神よりも愛すべき、守るべき存在であるからだろう。この「神」を思う少女は「信仰」の体現者であり、またこの国の「光」でもあり、「正義」でもあった。あらゆる善なるものを背負って少女はすべての国民から愛されていた。そもそもジル・ド・レェがこの想像の国をこしらえたのだって、もとは彼女のためだった。現実のジル・ド・レェが、現実の世界でジャンヌと呼び傅く少女のために、彼女の力となるため、彼女に仕えるにふさわしい理想の自分を育てるために作り出したのが、この思索の国なのだった。悪しきものを地下に閉じ込めたのだって彼女を汚したくないからだった。ここにいる少女は現実に戦場を駆けるジャンヌ・ダルクの投影に過ぎないが、そんな想像上の彼女にさえ、自分の中に巣食う歪んだ性愛や怨嗟といった醜いものたちと同じ場所に置き、同じ空気を吸わせることは耐えがたかったらしい。

国はこの少女を中心に据え、善なる国として存在していた。それはジル・ド・レェの想像の範囲内の善に過ぎなかったが、それでもそれは彼が必死にかき集め、しまいには頭痛さえするほどに集中して、散逸する悪やら汚れやらを排除して純度を高めていった、努力の結晶だった。その場所で私は幸福で、現実には重さも形もないひとつの概念でしかない国民たちだって、ここでなら人間として生きることができた。かれらはみな穏やかで、満ち足りて暮らしていたように思う。愛する私の国民たち。私は本当に幸福で、そして私にとってはこの国こそが真実だった。

それでも私の信じるそんな真実など結局は幻に過ぎず、この国も国民も現実の奴隷でしかないという本当の、本物の、真実の「真実」が、ある日私の目の前に突きつけられた。夢から覚めたような、急に頬を打たれたような気がした。本物の真実には重さがあるのだと、あとから思った。私の愛する少女が、目の前で焼け死んだ。

茶会の最中だった。
その頃、現実のジル・ド・レェの深い懊悩や絶望がこの国にまで影響し、快晴を映すことの多かった空にはいつも暗雲がたちこめていた。国民たちもどこか気もそぞろな様子で城内を落ち着かなくうろついていた。思索は停滞し、意識側に送る哲学も言葉もほとんどなく、仕方なしに質の悪い、まとまらない思考の切れ端を向こう側へ続く井戸の底に降らせてみるも、あちらでそれを受け取る気配もない。それどころではないのだろう。向こう側でなにか、おそらくは現実のジャンヌがなにか深刻な事態に陥っているらしい気配はなんとなく伝わってくるのだが、ジル・ド・レェがこちらのことを無意識の底に沈めたまま思い出しもしないために詳しいことはいつも以上にわからなかった。そもそも現実世界の出来事や記憶がそのままの情報としてこちらに流れてくることはなく、それらは空の色や気温、民の顔色や振る舞い、花の落ちる数などから読み解くしかないのだ。ただその日は、そういった国の変化をいちいち観察するまでもなく、なにか得体の知れない不安が私の胸を押し潰していた。それを払拭したくて、こちらも塞ぎがちだった少女と薄暗い中庭で二人、甘い菓子と熱い紅茶を用意した。少しでも気を晴らそうと、日常を取り戻そうとしたのだ。少女は青白い顔のままそれでも私に薄く微笑みかけ、温めたカップの取っ手に指をかけるとあっと小さく声をあげたきり固まって、人形のようなぎこちなさで私を見上げた。見開かれた目の下の白い頬が黒ずんでいる、と思う間もなく彼女の長い髪がぶわりと舞い上がって全身が炎に包まれた。肉と髪の焦げる臭いが一瞬であたりに充満し、消し炭となった彼女の腕が紅茶のカップを埋めた。燃えている最中少女は一声もあげずただ「どうして?」とでも言いたげな驚いた表情で私を見つめたまま完全な灰となって暗い庭に積もった。彼女を燃やし尽くした炎が消えた途端、ふっと、国中すべての光と熱が失われた。曇天の薄暗い庭はいつの間にか完全な闇夜に変わっていた。どこか遠くで、獣の咆哮が聞こえた。国中どころかその外界、肉や意識を超えて響き渡るジル・ド・レェの絶叫だった。それが空気を揺らし満たしていつの間にか私自身の喉からも同じ叫びが溢れ出す頃には、ただ一筋の光さえこの世界から消え失せていた。狂う、と思った。

以来、この国は完全な闇に沈んだきりだ。
神を愛する少女が死んだ。信仰は死んだ。この場所の存在理由そのものだったあの少女が、光と正義の体現者であった善なるすべてであったあの子が死んだのだから当然だった。もうここで神に祈る者はない。彼女を慕っていた「信仰」に準じる思索者たちも彼女の死に殉じるように消えた。暗くて見えはしないがいち早く崩れ落ちたのはあの明るい教会だったはずだ。闇の中で国のほとんどすべてが崩壊し、新たないきものたちが瓦礫の中からひそひそと不快な囁きを交わし始めていた。国中の火の気すべてを呪い殺すように、地下から海水の浸水が始まり、足元は常に生温い水に浸されるようになった。つられて、閉じ込めたはずの悪しきものも浮かび上がってきた。歪んだ性欲の象徴は闇の中、失われた善や光や精神愛を嘲笑し続ける。勝ち誇る笑い声はジル・ド・レェの祖父の声をしていた。それは時おり水音を跳ねさせ私の耳元にさっと近づいては、生臭い息を下卑たせせら笑いと共に浴びせてきた。振り返って掴みかかろうとするも、この肛門性交に耽溺した性の象徴者は老人とも思えぬ身のこなしで私の腕から逃れ、脂ぎった禿頭だけを掠めた私の指先を一瞬掴み返すとゲラゲラ笑いながら遠ざかっていくのだった。

光のない国を手探りで歩く。
触れるのはフジツボらしきものの浮いた城壁や、海草のようにぬるつく腐った花の残骸。海水に膝まで浸かる足元は、ときどき死んだ思索者の体を蹴飛ばしてしまう。次第にそれも気にならなくなり、邪魔にさえ感じ始め脚で雑に避けては歩き続ける。

「誰か」

そのうち、私は知らず声をあげている。

「誰かいないか、」

声を出していないと、声の出し方を忘れてしまいそうなほど、世界は静まり返っていた。悪意と怠惰に満ちて静かだった。いるとも、と返す声はあってもそれらは皆正気を失った言葉たちだった。怒り狂っているか嘆き狂っている。私はどこかに光はないかと探していたはずだったが、応じるものがあるのに喜んで、いそいそと近づいてしまう。王よ歓迎しよう、と嘲笑の色を隠しもせず招く声は私の腕をとって強く引く。それは滴るほどに温かく濡れていた。血と糞の臭いが強く鼻をついて、穢れきった手が私の頬にべたりと押し付けられる。

「神に呪いを。われらは今こそひとつとなって冒涜を積み上げよう。そうして彼女を奪った神の罰を待とう」

そうだとも、そうだとも、と応じるのは腕の背後に重なり合う無数の言葉たちだった。
ああ。ああ、そうだとも。私も大きく頷いたら、真っ暗だと思っていた世界の闇がまた一段と濃くなった。まだ堕ちる先があることに驚いていると、血濡れた腕が私に刃を握らせた。創造主たるジル・ド・レェが絶望の先に見出した狂気を、写し身たる私がなぞらずにどうしていられよう。私は笑ってそれを受け取り、瓦礫の隅に怯え隠れていた「純潔」や「無垢」めがけて振り下ろした。

そうした涜神の日々がどれだけ続いたことだろうか。私は「恐怖」や「苦痛」と親交を深め、ここでも正しく王として、かれらを従えるようになっていた。この老人たちが闇の中で語らうのを聞きながら、ふと、自分の顔を手で覆った。瞼が張り裂けそうに眼球が飛び出し、皮膚はぬるついている。私は、こんな顔をしていただろうか? 否、否。けれど、そんな些事はもう気にかけることはない。闇の中では誰に見られることもない。正しく狂人の顔をして、私は悪徳の思索者たちの話に満足げに頷き自らも手を下す。ここにあるのは人のかたちを模したものであるけれど、掘り返せばきちんと、現実の肉と同じような汚泥が溢れるのだった。それに塗れる作業を私は楽しんだ。頻繁に、自分の声や動きが現実のジル・ド・レェをなぞるように重なるのを感じた。けれど私にわかるのはそれだけで、外にいる彼自身が現在置かれている状況については何もわからなかった。彼の無意識の中にいながら、彼との繋がりはどんどん遠くなっていくようだった。
自らに本来課せられていた仲介の責については長らく放棄したままだった。一度手探りで見つけた井戸は、縁まで海水で埋まっていたのだ。混乱を極めたジル・ド・レェの意識の混濁。こちらからあちら側を知ることは出来ずとも、あちら側には、ここで起こる事象のすべてが漠然とした状態のままではあるが届いているらしい。ここで行われるすべて、ここに残った冒涜的な思索や哲学は私の手や井戸を介さずそのまま加工もなにもされず直にジルのもとへ届くのだろう。いつか世界の外殻をなすジル・ド・レェ自身に神罰が下るまで、そして彼と共にこの国が滅びるその時まで、暗闇の中の涜神は続くのだと、そう思っていた。



ある日。
血と臓物と潮の臭気のかたまりのような生暖かい空気の停滞するこの場所に、いやに冷たい風が強く吹いた。どこか遠くから大勢の人の声が波音のように寄せては引いて聞こえた。興奮しきった人々の声。罵声だった。それから、がたん、と一瞬虚空に投げ出されたような浮遊感が襲う。急な地盤沈下のような感覚に闇の中頭を上げると、空にあたるはずの闇が異様な勢いで収縮していくのがわかった。闇の中に濃淡があり、淡い部分が中心の真っ黒な一点に凝縮されていく。あたりの闇は充血したように赤味を帯びていた。足元の海水が震え波打って、周囲の闇も空気も巻き込んですべてがその一点めがけて凝集され、嵐のような風の音しかわからなくなり、目がまわって倒れる、と思った瞬間ぱん、とどこかで弾けるような音がして、途端に世界はゆるりと弛緩した。空に凝っていたどろりとした闇が下へ下へと流れ落ちてくる。それは音という音を絡め取って海底に泥のように溜まっていく。風はやんでいた。群集の声も消えた。どくり、と血の送り出される音がして、それを最後に前も後ろも上下も最早わからなくなった真っ暗闇の世界に眩暈のするような無音が満ちた。世界が死んだ。ジル・ド・レェが処刑されたのだった。



ジル・ド・レェが死んだことで、この国も滅ぶはずだった。
いや確かにこの時、滅んだのだったが、彼の魂は肉体が朽ちた後もどこかに在り続けているらしく、この国や私はそちら側に引きずられていまだ意識と無意識の狭間のようなところを漂っている。光は相変わらず絶えたままだが、方向感覚と音だけは戻ってきた。思索者たちがまた何事もなかったかのように「冒涜」や「絶望」について海水に膝まで埋めた状態でひそひそと語り始めた。国はジル・ド・レェが狂って死ぬ前の状態でのろのろと機能を続けている。
私自身の「ここにいる」という意識から、ジル・ド・レェの魂もまたどこかに存在しているだろうことが推測されるだけで、彼の魂がどこでどうしているのか、そもそも一体どのような因果でこの世に残るに至ったかも、前と同じに、私にはわからないままだ。それでも彼の分身たる私の胸に残るこの憤怒と嘆きが、彼もまたどこかで蹂躙された少女を想い慟哭し、彼女を見捨てた神をいまだ呪い続けているだろうことは確信していた。
ジル・ド・レェという創造主、現実を生きる生身の人間たる彼もまた魂だけの存在となった今、この国……最早国とも呼べない廃墟……は舵をとる者もなく縄をほどかれ、波に乗って沖へ流れ出した小船のようなものだった。真っ暗闇の無意識の宇宙を漂う、それ自体明かりひとつない暗い漂流船。滅びの機会は恐らく永遠に失われ変化もまた二度と訪れない。ジル・ド・レェの死の瞬間の心そのままに凍りつき、ただただ悪徳の思索を誰に届けるでもなく続けるシステムの幽霊。他の思索や象徴者と異なり、唯一自分のいる場所を把握することの出来る私にはその気の遠くなるような時間に永遠の終身刑を思った。創造主の手から離れた今こそ不満を感じ得るようになり、自身の境遇を嘆いて消滅を願えど、この寄生先をなくした概念は空っぽの駆動音をからから立てながら働き続けるしかない。闇に満ちるのはやはり暗い音ばかりだった。いつの間にか海面を満たすようになった、脚に触れるたびおぞけの走る何か、触手の塊のような怪物たちがその身を絡ませ合う湿った音と、濁った水面が小さくぶつかる波音。それに混じる陰鬱な呟きと内臓を潰す呻き声、怒り狂った絶叫や悲鳴ばかりが延々と響き続ける何も見えない暗闇の中で、長い長い長い……本当に長い時間が、ただただ流れていった。





ふと、瞼をひらいた。
開けても閉じても変わらぬ闇に、長らく閉じ続けていた目を本当に久しぶりに開いた。音がしたのだ。
波音や終わりない思索者たちの呟きはすでに音として認識されないほど馴染み尽くしていた私の耳に、それは何百年かぶりに間違いなく「音」として届いた。人の声だった。歌うような。なにかを嬉々として語る、光を帯びているようにさえ聞こえるような、明るい朗らかな声だった。どこか遠い、届くはずもないような遠く離れた場所から、内容も聞き取れない声が届いている。
顔をあげ頭上の闇へと頭を巡らしてみて、思わず声を漏らし息を呑んだ。うっすらと明るんでいる。タールのように重く動きのない闇だったはずの天は、今は正しく空であった。東雲にはまだ遠い濃紺、それでも、確かにあの陰影は明けの雲だ。頭上いっぱいに厚く広がり横から濃い紫が差しかかっている。雲の稜線を縁取るその美しい紫は夜明けの気配をにじませながら、いまだ夜と朝のあわいにくつろいだまま頭上高くを静かに彩っている。その遠いやわらかな光の気配にも、闇に慣れ瞳孔の開き切った目には眩い嵐のように映るのか、自然と涙が流れた。視界がうるんで更に茫洋と見える空の向こうから、紫色に照り始める美しい空を引き連れてきたあの遠い声はいまだ尾を引き、この淀んだ暗闇に一筋の涼風か清流を流すように歌われ続けている。私はただ呆然と立ち尽くしていた。

ジル・ド・レェの魂に、何かが起こっている。
目の錯覚かと案じるような遅々とした速度でうねる雲をじっと見つめ、何度か頭を巡らせど、こちらからは何も窺い知ることは出来なかった。しばらくして声がやんだあとも、私はじっと頭上の空に目を凝らし、耳を澄ませていた。相変わらず陰惨な声と不快な海水の音だけが響く中で、しかしさっきの声の残響がまだあたりにちいさく反響し続けているように感じられた。空はまだ暗いけれど、このまま待ち続けていれば平然と、当然のように明けていくような、あの深い紫色が見る間に薄紅に色づき、ほのぼのとあたりに照り広がるような気配が確かにあった。周囲のぬるい空気も蠢き始めていた。ざわざわと、すでに絶えたはずの血の巡りと、熱が、足元にいまだ完全な状態で凝る闇さえ巻き込んで攪拌し、色を含ませ、鮮やかに練り彩るような。
なんなのだ、と、落ち着かず瞬きを繰り返したその時、時間が一気に跳ね飛んだように東雲の空がいきなり白んだ。目を見開くその前に、肌を炙って燃え立つような真っ白な強い光が闇の国をいっぱいに照らした。一瞬あたりのすべてがその強烈な光にさらされて、淀んだ海水に沈む崩壊した国の残骸や積み上げられた言葉の死骸が一度に全部露わとなった。思わずかばった自分の生白い腕に、いつの間にか血の流れるような刺青の走っているのを潰れそうな目の端で見た。その向こう、光の去るその一瞬前に、私はあの少女を見た。真っ先に崩れ落ちたいつかの教会内部を背景に、あの頃の愛らしい、けれど凛とした佇まいのまま優しく微笑んで私に向けて手を差し伸べた。それを取ろうと腕を差し出しかけた途端、光が去った。
幕を落とすようにあたり一面に暗闇が戻ってきた。舞台の暗転のように一瞬で、容赦のない転換だった。明けかけていた空ももう見つけられなかった。

少女の幻影は光と共に消え、変わらぬ闇の中に手を伸ばしかけた私だけが取り残された。ふらついた足元に肉片らしきものが大量に触れた。他の象徴者たちは光の強さに耐えかね身のほとんどを崩し、ばらばらになって、あたり一面にゴミのように散らばっているのが察せられた。立っているのは私だけだった。光の去った世界、暗がりで響いていた水音さえ絶えた世界に一人きり呆然と佇むうち、じわじわと周囲の闇が萎縮していくように息苦しくなって、身を端から焼かれるような恐ろしい孤独と絶望が私を蝕み始めた。
一体、いつまで。
創造主たるジル・ド・レェさえ恐らくはあの光に救済を得て、ともすれば未練がましくジル・ド・レェのまま世に残り続けていた魂の残骸さえ正しく消えたかもしれぬというのに、何故私だけ。私だけ一体いつまでこんなところに。
喉の奥から幽鬼のような声が漏れ始める。正気の残り滓のようなものがとうとう焼き尽くされようとするその時、目の前を光の束が横切っていった。ばしゃん、と大きな波音がたつ。お、っとぉ、とすぐ先であがった音が人の声だと気付くには、しばらく時間がかかった。新しいその光はさっきのものほど強くはないが去っていかないから、目をうまく開けていられない。何度も瞬きを繰り返すうちに、目の前の光を帯びた塊が人であることにようやく気が付いた。
光は若く健康そうな、青年の姿をしていた。オレンジがかった明るい髪の先から足先まで月のような淡い光を纏って、宗教画の聖人のように穏やかに微笑んでいる。あなたは、と、ずっと動かしていなかった舌と喉を震わせ擦れた声で私が尋ねるのを、おれは、と受けて、彼は笑みを深めた。

「おれは盲いたあんたの新たな光」

なんつって、と言ってくしゃりと笑う、そうするとまるきり子どものような顔になった。
驚きで言葉も出ない私に、光る青年は改めて真正面から向き直ると、にこりと愛想よく微笑んだ。

「名前もあるよ。おれは雨生龍之介。ジル・ド・レェの長い歴史の中の最後の登場人物。あんたの、おれの、創造主たるあの気狂いが、本来ありえない巡りあわせで死後に出会った雨生龍之介の記憶をベースに練られ捏ねられ形をもって、こうしてここにやって来た。あんたに会いにきたんだ」
「死後に出会った? 一体……いや、それよりここにあなたは何を? 私を殺してくれるのか?」
「いいや、殺すのはこいつだよ」

言うなり彼は顔の横にナイフをすいと掲げ、それを無造作にとん、と落とした。足元で呻き声があがった。まだ息の残っていた、「死」の老人だった。萎びた背中にまっすぐ刺さったナイフを、青年は軽く脚をあげ、豹を模した柄のブーツでぐっと踏みつけた。「死」は蛙のような声をあげて海老反りになると海水に突っ伏して、それきり動かなくなった。彼が半身を屈めて刃を抜くと途端に大量の血が溢れ、周囲の海水を赤く染めていった。
こうした残酷な行いの間にも、この青年の顔に浮かぶのは嗜虐の悦びというよりはむしろやっぱり子どもじみた、ただ明るい享楽に溢れた笑みなのだった。淡い光を肌の表面に浮かべ、血塗れた刃物をくるりと器用に手の中で翻してにこにこと笑っている。

「さすがにこいつはもういらないでしょ。あんたは死なんて、とっくに経験済みのはずだろ?」
「ああ、それは……いや、けれど、ならばあなたは」
「言ったじゃん、ほら!」

そう言って彼が両腕を大きく拡げた途端、松明でも振り回したかのように火の粉に似た無数の光の粒があたり一面にぶわりと舞い上がった。大きな腕の動きの軌跡に引かれた光の残像も、小さな天の川のように闇を照らし出す。青年が動くたび、周囲の闇は彼の光に浸蝕され追いやられていった。明るくなったでしょ? と、腕を拡げたまま笑う彼が癪に障り、私はいまだ現状も把握できぬままのくせにほとんど反射的に、苛立った厳しい声で彼を叱責した。

「あなたが私の光ですって? 馬鹿な。おこがましいにも程がある。私の光は彼女だ。ジル・ド・レェが失い、この国からも私からも永遠に奪われたきりの、あの少女以外ありえない。あなたが、私にとって一体何だというのです。私はあなたなど知らない」

掴みかからんばかりに彼との距離を詰め糾弾する私を、青年はえーっと……、とナイフを持ったままの片手で軽く制した。もう一方の手でがりがりと困惑したように後頭部をかいて、そういうの、おれに言われたってなぁ、と途方に暮れた声をあげた。

「それを言うなら、おれだって本当にはあんたを知らないよ。最初はみんなそうでしょ? それにおれ、ほとんど生まれたばかりで、自分のこともよくわかってないんだ。でも、ただ……でもさ」
「なんです」
「あんたに否定されると、つらい」

ぽつりと漏らされた言葉に、思わず目を見開いた。へらりと笑いながら眉を下げる彼がさりげなく、そっと腕を下ろす。それでも彼の淡い光は静かに周囲の闇に溶け込んで、明るさを増していった。それを困ったように見つめながら、おれはただこういうふうにつくられて、この場所に投げ込まれただけ、と言った。あんたと、ここにあるものすべてと同じに、ジル・ド・レェが頭の中でこしらえただけの幻。……それでも。

「それでもあんたと同じに心はあるし、動く。おれの寄る辺は与えられたこの感情だけ。それが今つらくて、悲しいならさ、ジル・ド・レェがそう思ってたってことだよ。あんたはジルじゃないけど、ジルはあんたを自分と同じに、分身、っていうか、理想の自分としていたから。自分が龍之介を否定したら、きっと龍之介は悲しむって信じてたからおれはこうなんだよ。おれがわかるのは、それだけ」
「そんな、」
「ジルにとってあんたはまだジルだけど、こんな遠い場所じゃもう、あんたはジル本人にはなり得ないんだね。おれもそう。ジル・ド・レェがともに過ごした、たかだか六日間の記憶だけで構成されたジル・ド・レェのためだけの雨生龍之介。本人そのものにはなれない。……だからさ、偽者同士、おれたちうまくやれないかな? おれもあんたもつくりもので、感情もつくられたもので、それだってジルの思い込みかもしれなくて、全部妄想でなにもかも嘘っぱちでも、それでもおれはあんたといたい。あんたが好きだよ。信じらんないくらい自惚れてたのか、それともここまで信じられちゃうくらい、本物の龍之介もジルが好きだったのか、それは知らないけど。あんたはジルじゃないから信じないかもしれないけど、でも、それでもおれはあんたのことがばかみたいに好きなんだ。一緒にいさせてよ」

青年はそこまで言うと、あとは全部私に委ねるように口を閉じこちらを見つめている。私が黙っていると、少し気詰まりなように目を伏せた。薄い瞼のそんな微かな動きにも淡い光が湧いて出て、白目に浮かぶ彼の瞳の奥の、真っ黒い瞳孔が音もなく収縮するのを見た。それが不意に上向いて、瞳いっぱいに私を映し出す。彼は驚きの表情で目を見開いてその場に立ち尽くしている。気付けば、私は彼のすぐ目の前まで近づいていたのだった。首をいっぱいにあげて真上にある私の顔を見つめようとする、青年の細い顎の先が私の胸のあたりを一瞬掠めた。彼が瞬きを繰り返すたび、小さな光の粒がちかちかと明滅し散っていく。反射のように二、三歩後ずさる彼が、うわ、え? と言葉にもならぬ声を漏らすのを聞いて、ふとさっきまで空の向こうから届いていた声を思い出した。あれは、彼だったのだろうか。ここにいる彼の、本物の。繋がりも絶えて久しいこの国の創造主ジル・ド・レェが、死後のその後の、最後の最後にここまで投げて寄越したこの光の起源。あの時私が呆然と見蕩れた濃紺色の空に浮かぶ、明けの期待を確かに孕んで頭上を彩っていた紫。導くような誘うような、楽しげに歌うみたいなあの声。私はじっと、目の先の彼を見下ろす。彼だろうか。

「……ここを光で満たすのが、あなたの使命なのですか」
「さあどうだろ? そういうの知らないんだ。おれはただ光るだけ。他にはなんにもないから、それ以外は思うままにやるしかないよ。古臭い『死』はもういらないと思うから殺したし、あとはあんたについて行きたいって思う、そんだけ」
「ついて行く? どこに? ここから一体、どこへ行けるというのです」
「あんたはどこにも行きたくないの?」

ずれた返答に眉をよせると、青年はきょとんとした顔で、それともどこかに行きたいの? と続けて問い返した。
どっちでもいいよおれは、とそう言って、彼はぐるりとあたりを見回し微笑んだ。視線を巡らすその先、これまで闇に沈んでいた光景は、浅い海底に降り積もった彼の光のためにとうに露わになっている。うつ伏せに浮かぶ「死」の死体と、その背から溢れる血に引かれて集まってきたあのぬるつく怪物たち。初めて光のもとで目の当たりにするそれらは、腐った臓物のような粘液にまみれ、淫蕩な感じのする巨大な触手を互いに絡ませあい、もつれこんがらがって周囲の海面を埋め尽くしていた。その腐肉の間からは死んだ言葉や象徴たちの腕やら脚やらの砕けたパーツが浮きつ沈みつしている。あたりは酷い臓物臭と血の臭いで満ちていたが、目の前の青年はパンを焼くかまどの前にでも立つように大きく息を吸い、目を細め、「こりゃ絶景だぁ」と感に堪えぬ様子で呟いた。うん、おれここ、好きだな。

「あんたがここにいたいなら、おれもいる。でも、どこかに行きたいならやっぱりおれもついて行くよ。まだまだ暗いし、おれがいたほうが、ほら、道中便利だと思わない?」
「だから一体どこへ」
「どこへだって。暗くて見えないだけで、あんたはほんとはどこにだって行けるよ。知ってるでしょ? 創造主はもうここを手放した。ジル・ド・レェとこの国を繋ぐ脳味噌なんか何百年も前に焼かれて灰になったんだから。ジルの魂と共鳴して存在だけしてる……してんのかな? してないかなぁ。そもそも実在してなかったし、でもさぁ、おれたちが『ここにいる』って思うんなら、もうそれでよくない? 作り物でもユーレイでも、したいことがあるなら全部して、行きたいところに行こうよ」

それでおれはたぶん、あんたがそうするためだけにつくられて、ここにいる。
そう言って、彼はほんの一瞬の躊躇いののち私の腕をその光る両手でとった。振り払わない私にその顔が静かに、またひとつ明るくなる。私はそれが、なんだかとても悲しいものに思えて、急に息の詰まる心地になった。

「そもそもが虚像の私のためにつくられた? それだけのために? そんな……そんな悲しい玩具がありますか」
「えー、悲観的だなぁ。ああほら、泣かないで」

泣いてなど、と返す私の頬に彼が触れて、いやいや泣いてるって、と苦笑しながらその指を目の前に翳してきた。それは確かに涙の雫で濡れていて、何故こんな初対面の、知りもしない彼のために、と私は静かに驚く。それと別のところで、私の涙を滴らせるその光を帯びた指のあんまり美しいのにも目を瞠っていた。彼の細い指先に浮かぶ涙が、自分の身のうちから流れ出たものだとは信じられないほどふさわしい飾りのように見えた。さまざまな正体のわからない感情が胸に迫って言葉を失う私に「ああもう……また」と彼は困り果てた表情をしてそのきれいな手を翳し、再び私の顔に触れていく。あんたって泣き虫なんだね、と笑いを含んだ声で言う彼の、とても近い場所にある髪や時々伏せられる瞼の動きを見下ろしながらふと、知っている、と思った。私はこれを知っている。彼のことなど何も知りはしない、記憶にだって当然あるはずもないのに、私の肌はこの指を知っていた。私自身が幻だというのにまるで遠い昔に夢で見たような、感覚だけの既知の確信、既視感のような、これは、正しくはこの国と断絶した後のジル・ド・レェの記憶だろうか? この白くて細い、男にしては優美すぎる指が私の頬骨の表面をそろりと撫でて、とん、と軽く叩いて涙を弾く。気安い口調と裏腹な慎重な手つきは未知の楽器を弾く子どものようだと思った。どこか違う場所で私じゃない誰かがそれと同じことを思い、同じように、優しい指のたどる軌跡を息を詰めて見つめたはずだった。こんな細い指先が、私のかたい頬をまるで壊れ物を扱うみたいに触れたことが、確かにあった。

……もし、これが。
この感覚が、そのとおりジル・ド・レェの記憶だとしたら。
ジャンヌを失い狂ってしまった彼もまた、この青年の手でこうやって慰められたことがあるとするなら。そうしてそれをどうかしてまた失ってしまったからこそ、その記憶の塊にかたちを与え光を託して、私のもとに投げて寄越したのだとしたら。私は涙で濡れたままの目を強く閉じ、創造主たる彼の、そのときの感情に思いを馳せる。
もし、そうなら。ならばそれこそ「真実」だの「本物」の無力さの証ではないだろうか。いつか私をうち負かした「現実」、頬を打ったその質量、それが最後に縋るのがこんな幻の、夢の、言葉だけの概念だけの世界なんだとしたら、どちらが優位だとかそんなことはもう、関係ないのだ。現実がなければ存在し得ない、生まれることも出来ないこんな場所でしか、現実が救われないということもあるのだ、きっと。
現実の肉体には重さがあって死ぬほど辛くとも悲しくともそこから逃れられず、地に脚を繋がれたまま飛べもしないから、せめて頭は空想の羽根を伸ばすのだろう。理想の自分を、幸福のただなかにある自分を。

そこまで考えて、ああ、と私は内心で溜息をつく。ああしまった、認めてしまった。
ゆらりと目を開けば目の前に光。美しい指の先から惜しみなく、私のためにこぼれ落ちては周囲の暗闇に溶け込んで明度を確実に高めていく。心が何百年ぶりかに凪いでいて、呼吸も忘れそうなくらい胸にあたたかなものが満ちていた。そうだった。認めてしまえば、私は今確かに、幸福を感じ始めている。ジル・ド・レェが掴み損ねた、もしくは掴んですぐに取りこぼした光は今、この私のもとにある。

「どこに……」
「ん?」
「どこに行きましょうか」

擦れた声で問う私に彼は一瞬目を見開き、それからほとんど比喩でなく顔をぱっと輝かせると、涙で濡れた手で私の両手を今度は躊躇わずに強く握った。「どこにだって!」

そしてそのまま片手だけ繋いだまま、彼は体を反転させて前へ前へと歩き出す。濁った海水を弾む足取りで大きく跳ねさせ、そこに淀む生臭いものを蹴散らしながら、私の歩みを照らすひとつの大きな照明となって、青年は歌うように、どこに、どこがいいかなあ、と口ずさんでいる。

「当てはないけどさ、まずはあんたがそうやって泣いちゃわないところがいいなぁ」
「あなたが、玩具になどならない場所ですね」
「ふは、そっか。そだね。うん、探そう。ないなら作ろ」

私の言葉に噴き出した彼が、肩越しに振り返ってにっこり笑う。そのまま正面から私の顔を一度覗き込み、後ろ歩きに数歩進んで両手を拡げた。ね、明るい? と満面の笑みを浮かべて彼が言う。

「ここには天地もあるし水もある。そんでおれ。しかもあんたは、かつては栄えた言葉の王。世界なんて、一週間もしないで作れちゃうよ」

呆気ないほどたやすく壮大なことを告げる彼が、かつてならば不遜だと憤るだろうに今は愉快でおかしくってたまらなかった。涙の衝動によく似た震えが喉の奥から迫って、溢れたそれはしかし大きな笑い声となって明るみだした空気と水面を波立たせた。

「それは愉快な思いつきだ。ああなんだろう。なんだかとても楽しい……あなたは…龍之介は、どうですか?」
「あ、……うん。はは! うん、なんだろうこれ、すっげー嬉しい! おれも! おれも楽しいよ、ね、えっと、ジル!」
「私は、彼ではありませんよ」
「じゃあ、王様?」
「民もいないのに?」
「おれだけかぁ。そんなら、旦那?」

青年が、龍之介が何気なく口にしたそれに、お互い顔を見合わせ、首をかしげた。目を瞬かせる彼もまた、私と同じ既視感を覚えたのだろうか? それから二人の間にじわりと笑みが広がっていって、彼がまたそれを口の端に乗せる。旦那、と。

「おれたちはどこにだって行けるね、旦那!」

龍之介が高らかに声をあげ笑うたび、大ぶりの花がわさりわさりと花粉を散らすようにあたりに光が散って明るくなる。
惜しげもなく金粉を撒き散らしながら弾む足取りで私に歩み寄り、ほら! と大きく腕を振って手を差し伸べる彼が、ただもう明るくて眩しくて目を眇めた。まだ暗さの残る世界未然のこの場所にだってそのうち完全な朝が来て、いつかは光の粒が空気を充たす目に痛いほどの金色の夏だって訪れる。それを確信しながら、私は明るさに負けないようしっかりと目を開き、差し出された手を今度こそ確かに、強く、握り返した。