501号室(夕月) ※藍グリ
チェックインを済ませ部屋で寛いでいたら若い従業員が入ってきて、にやにや
にやにや、いつまでたっても帰らない。外では雨がぽたぽたと降り続けている。
男は眼鏡の奥の、長い睫毛に縁取られた目で頻りに上目遣いをして何かを言って
はくすくす厭な笑いをした。見覚えがある様だが人違いの様にも思われて、はっ
きりしない。
「僕がお伺い出来た義理では御座いませんが、他の者が気後れして是非にと言う
もので」
それが私には解らないと、そう言っているのだけれど、相手はきかない。従業員
はホテルマンのくせに桃色の髪をして、また声がなめっこく手が白いので女と話
している様な気がした。
「まだ信じない者もいますし、恨んでいる者もいれば、合わす顔がないという者
もいて、だから」
「待ってくれ。その話はいくら聞いても私には腑に落ちない。人違いじゃないだ
ろうか」
「御尤もです。それはつまり」
話の途中で顔の下半分を手で覆った。
笑いをこらえるような、嫌な感じのする動作だ。
「皆を、いやあれを一目御覧になればお解りになります。本当によくお出で下さ
いました。そんな姿で、よくお出で下さいました」
話している内に段段声が低くなって、仕舞のほうは獣じみた唸り声になった。
眼鏡の奥の目が変にすわって、私を睨んでいた。
急に表が森閑として来たと思ったら、今まで耳に馴れていた雨の音が一瞬ふっと
止んで、途端に黄色い様な、少し青味を帯びた夕日の影がぎらぎらと窓に照りつ
けた。それからまた降り出して、雨はまだやまない。
夜中に仕事でノートパソコンのキーを叩いていると後ろに気配を感じ、振り返る
と座椅子に備え付けの白い浴衣がかけられていて、それが丁度人が座っているよ
うに思われるのだった。首を戻して作業を続けるが、どうにも気になってしかた
がない。うしろに、白い着物を羽織った自分がいるような気がしてならないのだ。
そのうちうしろの着物が本当に動きだした。
その自分が前を掻き合わせながらそっと立ち上がり、白い裾を翻してドアを開け
廊下に出るのが、振り返らないでもはっきりと感じられた。
廊下に出ると白い服を着た従業員が角に立っていて私を見ている。そちらに歩き
出しかけたら、別の従業員が私を見ながら脇を通り過ぎていった。
見れば廊下のあちこちに白い服の従業員がいて、うろうろしながら私を見ている。
「まだお解りになりませんか」
最初に見かけた男が角から近付いてきてそう言った。緑色の瞳をしていて、死人
のように白い手で廊下の奥を指さした。
「皆あなたを待っていたのですよ。ほら、あれを御覧なさい」
廊下の奥にはドアがある。ここは5階なのに、白い手の男はあれが六番の部屋で
すと言って、もたもたしてると食べられるから早く行きなさいと私の背を押した。
「今夜が終わったらすぐにここを出てください。帰ったら全て忘れて、今度こそ
人として長く生きてください。それではあれによろしく」
なにか音がしたと思ったら後ろから酷い風が吹いてきて、あたりの従業員たちを
ごちゃごちゃに吹き飛ばした。すぐ横を飛んでいった従業員が私を見て「神様」
と呟いていた。
ドアは自分の部屋のものと全く変わらないもので、前に立つと奥から入れと声が
した。部屋に入るとベッドの上に水浅葱色の髪した男が半身を起こしていて、な
にか言いたげにじっとこっちを睨んでいた。男は髪と同じ色の瞳をしている。
「来るとは思わなかった」
そう言うと男は起き上がってベッドの上に胡座をかき、青い髪をがしゃがしゃと
掻きまわした。怪我人が起きたりしていいものだろうかと思うが、男はもう大丈
夫だと言ってまじまじとこっちを見ている。
「随分変わったのに変わらないように見える」
「どうだろう」
「俺たちは変われないのに、神様が人になれるなんてすごい話だな。まあそれは
どうでもいい。それより、今更なにをしにきた」
「わからない」
いつの間にか部屋の中がざわついている。上を誰かがどたどたと走っていて、外
ではたくさんのものが押し合いへし合い、ドアに群がっているようだった。男が
ドアのほうをきっと睨んで、うるせえぞと怒鳴った。
「いいのかい」
「よくないな。だから早く帰れと言ってるのに。なにがしたい。心中の続きは駄
目だ、あれは、あんたも懲りたろう。俺はもう嫌だ。なのに本当に今更、一体何
をしにきたんだ」
そのとき戸棚や引き出しが開いて、中の細々した物が動いて部屋が混雑した。男
の座るベッドが急に遠くなって外へと押し流される。
小さくなった男が遠くで何
か喋っていて、耳をすましてよくよく聞いてみると、俺は最初からずっと、神様
なんかが欲しかったわけじゃないと言っているようだった。
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