特別室(桑屋敷) ※ネウヤコ
特別室の恐ろしい女探偵について、はっきりと知っている者はホテルにももうあ
まり残っていなかった。その人は昔このホテルで起こった殺人事件を解いたこと
があり、その縁でか、探偵業を廃業してからはここにずっと一人で泊まっている
。探偵のときは背の高い助手の男がいつもついていたのだが、いまそれを聞くと
探偵はわらって、あれは郷里に帰ったのだと答えた。だから探偵はもう何年も一
人でここに暮らしている。
特別室は三階にあって、女探偵はよくそこの窓からホテルの裏庭を見下ろしてい
た。特に日が沈むころには、裏庭の高い桐の木に烏が群がっているのを、眉を険
しくさせてじっと眺めているのだった。
探偵は日がな一日ホテルにいて、敷地内から出ることはなかった。朝からホテル
の中を歩いてまわり、時々中庭や、従業員しか通らないはずの裏庭なんかを、手
を後ろに組んでぶらぶらと散歩していた。ホテル側も別段文句はいわないようだ
った。
ある日女探偵は裏庭の桐の木の下に、鳥の雛が落ちているのを見つけた。嘴の大
きな黄色い雛鳥だ。女探偵が撫でようとすると、雛はその小さな体からは信じら
れないような力で女探偵の手に噛み付いた。女探偵は急いで特別室に戻ると薄暗
い部屋にしゃがみこみ、長い間一人でしくしく泣きつづけた。
よく晴れた静かな日、女探偵がいつものように廊下を歩いていると、ホテルの制
服を着た少年が赤い箱を両手に抱えて立っていた。大人の制服は少年の体に全く
合っていないので、少年は裾を引き摺っている。
「なにをしにきたの」
女探偵が少しきつい口調で尋ねた。少年は長すぎる裾に足をとられそうになりな
がらも一歩ずつ近付いてきて、その一歩ごとみるみる手足が伸びた。数歩で女探
偵も何度か見かけたことのある従業員の姿になって、制服をぴったり着こなすよ
うになった。
「真面目に働きにきただけだよ」
そう言うと赤い箱を片手に抱えなおし、空いたもう片方の腕で女探偵を軽く抱き
締めた。そしてすぐに放すと、赤い箱の従業員はすたすたとどこかへ歩いていっ
てしまった。女探偵はそれを黙って見送ると、またいつものように手を後ろに組
んでぶらぶら歩き始めた。
また別の日、女探偵の昔の知り合いだという男たちが連立ってやって来たことも
あった。男たちは刑事らしい。刑事らと女探偵はロビーのソファに向かい合いな
にか話していて、女探偵はにこにこと笑いながらこんな話をした。
「ねえみんな、魔人なんていないのよ。魔界なんてのも、本当はどこにもないん
だわ。私この前裏庭を歩いていたら、急に上から髪の毛を引っ張られたの。みん
なだったらネウロがやったんだって思うでしょう?だけどそれは、木の枝に髪が
引っ掛かっただけだったのよ。私にはちゃんとわかってたわ」
そう言う女探偵は前より随分痩せて、あんまり目がぎらぎらしていたものだから
、刑事たちは少し恐ろしくなった。刑事たちの中で一番若い男なんかはその場で
泣き出してしまった。女探偵は立ち上がり、どうしたのヒグチさん、と言ってい
ろいろ宥めようとしたが、泣きやまないので、諦めてソファに座り直した。
「じゃあ今度はもっと楽しい話をするね。昔あの事務所が酷い雨漏りをして、私
の教科書からノートから、借りた雑誌までびしょ濡れになってしまった。それで
私が『もるは嫌だ、もるは怖い。虎狼より魔人よりもるが怖い』と一人言を言っ
たら、それを聞いたネウロは、「もる」とはどんな化け物なのだ?なんて言った
のよ。おかしいでしょう。ふふ、「もる」ってどんな化け物なんだろう」
女探偵は一人で笑い続け、刑事たちは帰って行った。若い刑事は最後まで泣きや
まなかった。
それがもう何十年も前のことで、そして女探偵はまだここに泊まっている。年相
応の落ち着いた服とけばけばしい化粧をしていたが、それを落とせば探偵をして
いた頃と変わらない、あどけない少女の顔のままでいることにホテルの人間は気
付かない。
あの時の赤い箱の従業員なら知っていたかもしれないが、誰がそうだったのか女
探偵にはもう思い出せなかったし、従業員に変身した少年自身忘れているのかも
しれなかった。
時々、噂を聞いた老人が昔名を馳せた女探偵を探しにやってきたが、そういう人
は大抵彼女の食事風景を見ると何も言わず帰って行った。昔はレストランひとつ
一晩で食い尽くしていた女探偵は、今では片手に収まるくらいの食事しかとらな
かったからだ。
少食の年老いた女探偵は軽い朝食をとると、地味な着物でぶらぶらとホテルを歩
く。裏庭にはあまり出なくなっていた。
雨がぽたぽた降ってきて、女探偵は窓から灰色の裏庭を見下ろした。雨のせいで
烏は大人しかったが、それよりもずっと大きな鳥が、桐の木の下で女探偵の特別
室を見上げていた。女探偵は長い間それを眺めていて、本来の年に似合わない少
女のような笑みを浮かべた。
いつものように朝食を食べにこないことを心配した和食料亭の主人が受付係に伝
え、ノックしても返事がないことに客室係がほとんど確信してドアを開けると案
の定女探偵は死んでいた。
外傷もなにもなかったから老衰だと思われたが、化粧
をしていないその顔があんまり少女のようだったので、皆首をひねっていた。
だけど女探偵はもう何十年も前からホテルにいたので、誰も彼女のことをあまり
よく知らず、変だということを自信をもって言うことが出来なかったらしい。
女
探偵は身寄りがなかったので、ちゃんとお役所に届けてから裏庭に埋められた。
桐の木の下は雨が降ったあとだったので掘りやすかったそうだ。
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