道連(イルザエ)




暗い峠を越して来た。冷たい風が吹き下りて、頭の上で枯葉が鳴った。
木の切れ間に見える向こうの山の、裾のあたりで灯りが二つ三つ風に震えている。
どこかでずっと水の音がしていた。


僕は少しも休まず歩いていった。僕の傍には男が歩いている。
男は明るい星明りに金色の髪を揺らしてついてくる。時々僕の名前を呼んだ。
返事をしても何も答えないので苛々した。男が誰なのかも、いつから一緒に歩いて いるのかもわからなかった。峠を越える時一人だったことは覚えている。


どこかで水の音を聞いている。淵に淀んでいる水を、無理に掻きまわすような音に 聞こえる。男が「ザエルアポロ」とまた呼んだ。


「なに」

「向こうの山に灯りが見えるな」

「だからなに」

「でもあれは俺たちの家じゃない」


振り返ると男は静かに見返してきた。歩くたび揺れる髪がやはり綺麗だった。 空には星が散らかっている。大きいのや小さいのが不揃いに瞬いて空を混雑させ る。こんなに明るい空が大地の上に流れているのに、自分の歩くこの大地は真暗 で、一足先も見えてこなかった。こんな夜のある筈がない。

「怖がらなくていい。俺がいるだろう」

男が言った。僕はうすら寒い気持ちのまま、どうして、とたずねた。


「だって俺はお前の兄だから」

「僕らに兄弟なんかいるわけないだろう」

「いるんだよ。前に死に別れたから、俺はお前に会いに来たんだ」


そう言うと男は僕を追い越し、そのまますたすた歩き続けた。僕は僕がこうして ある前のことなんか覚えていなかったし、考えたこともなかったから、どう思え ばいいかわからなかった。男の長い金色の髪だけをただ眺めて歩いていた。底に 落ちるような水の音がしきりに聞こえていて、そのうちにまただらだら坂道にさ しかかった。男が振り返らないまま「ザエルアポロ」と僕を呼んだ。


「俺はお前に頼みがあってついてきたんだ」


息がつまるような気がした。あとを言わず、男は歩き続ける。風が少し荒くなって、 冷たい土の匂いが鼻をついた。男がまた僕の名前を呼んだ。落ち着いたままの調子 で、だけど声がわずか震えていて泣いているかのようだった。僕はまた苛立つ。そ んな声で僕の名前を呼ぶなと思った。

「兄と呼んでくれないか」

それだけでいいんだ、と言う男に僕はびっくりすると同時に、腹がたった。

「気味の悪いことを言うなよ」

思わずそう言うと、男は「お前はいつもそうだ」と溜息をついた。そうして、自分 以外はカスだと思ってるんだろう、と言った。そのとおりだと僕は思い、それにま た苛立っていく。

「兄と呼んでくれ。なあ、お前は知らないのかもしれないが、ここは、一人でここ にいるのは、とても」

そう言って男はまた黙り込む。僕は益々気味が悪くなり、腹がたって、男の背中か ら目をそらした。見てられないような気がした。伏せた目線の先、道の片側が崖に なっていて、底のほうに青い灯が水に映ったように潤んでいた。


それを見ているうち、何かを思い出しそうになった。痛くて苦しい気がした。喉に なにかがせりあがって、しゃっくりをするような声がこぼれた。顔が熱くて、目に なにかが溢れていく。忘れていた感覚に僕は俯いて耐える。男が「どうか言ってく れ」と言った。


ああ、と僕は声をもらす。呼んでしまおうかと思った。兄さん、と呼ぼうと思った。 涙がついにこぼれて、声が喉につまって口が利けなかった。兄さんと呼ぼうとして 出来なかった。


「俺はあいつの傍にいても、お前のことを考えて、おもっていたよ。お前には、だけ ど、そんなのはどうでもいいことなんだろうな」


男の声が諦めを含んでいる。待ってくれと僕は思って、それでも声は出てこない。

「おまえは俺をみてくれない。きっともう、思いだしもしない」

男の声が泣いていた。金色のきれいな髪が震えるのを、僕はただ眺めることしかで きない。僕は、僕もいつかどこかで、こんなことを誰かに言ったような気がした。 水の音にも聞き覚えがある気がした。あれがなんなのか、わかる気がした。


「また会えるかどうかもわからないのに」


男が震える声で昔の僕と同じことを言うのに、僕はたまらなくなって、しゃくりあ げるのを止められなくなった。喉がつまって、それでも兄さんと呼んでその背中に 縋ろうとした。すると今まで前を歩いていた男の姿が急に見えなくなり、同時に水 音も星空もすべて消え完全な闇が重く体にのしかかった。そしてもう一歩も動けな かった。