疱瘡神(ネウヤコ)
昼過ぎにあの男が玄関に来た。
俺が出ると奥様に会わせていただけませんかと馬
鹿丁寧に言った。男は最後に会ったときと全然変わらず若くて美しいままだった
が、右手を体の横にだらんと下げたままなのが気になった。俺はこんな男に妻を
会わすのは絶対に駄目だと思ったし嫌でならなかったのに、話し声を聞いた妻は
自分から出て来てしまった。
昼飯の途中だったから、いいから戻んな、と俺は言
ったのに妻はもう食べたと言う。昔のような量を食べなくなっていたので、妻の
食事はとても早い。俺が無理矢理部屋に戻そうとすると妻は笑って、えいしさん
(結婚してから妻は俺をこう呼ぶ)大丈夫だから、少し二人で話をさせて、と言う
ので俺は引き下がるしかなかった。
玄関での会話に俺は聞き耳を立てたが何にもわからなかった。ただ短い応答のあと、
男は玄関を開けて出て行った。馬鹿丁寧に「お邪魔しました」と朗らかに言い残
して。
戻ってきた妻はぼんやりした顔で、俺がどうしたのと聞いてもうん、うん、
と答えるばかりだった。やっぱり会わすんじゃなかったと酷く後悔したが、も
う遅い。気付くと妻はいなくなっていた。
俺は家を出て妻を探しにいった。通りに出て名前を呼びながら歩きまわったが見
つからず、日が暮れはじめてきた。町は静かで誰もいない。虫の鳴く声と遠くで
川のさらさら流れる音がしているだけで、人の話し声は全く聞こえてこなかった。
なにか大変なことが起こっているような気がして、俺はまた無暗に走りだした。
妻の名前を呼ぶと、どこかの家から人の声がした。笑い声のようにも泣き出す寸
前の音のようにも聞こえた。家に入ると奥の襖からまた声がして、開けると妻が
布団に入っていた。隣りにはあの男も横になっている。男は真っ暗になりつつあ
って、指先はもう闇だった。顔は黒く、男が瞼を開くまで、深い穴でも空いてい
るかのように見えた。
「やみにかかってしまったの」
と妻が言った。妻の手足も先のほうが黒くなっていた。「ネウロが」と辛そうに
言おうとするので、俺は黙って、と言った。妻はそれでも、ネウロが、と口を開く。
「ネウロはやみでもうすぐ死んでしまうの。それでさっき、死に水をとってほし
いと頼みに来たのよ」
妻はそう言って、そしたら私までうつってしまったと薄く笑った。ふざけるなと
俺は思い、妻を布団から起こして無理矢理背中におぶると家を飛び出した。男の
真っ暗な顔の中に、不思議な光をもつあの瞳が二つ浮かんで、俺を見つめていた。
口はもうやみにのまれたので何も言わなかった。
夕暮れの道を俺は妻を背負って走った。人はおらず、川の音ばかりが耳についた。
「本当は」妻が俺の耳元で囁く。浅く早い息で。
「あんなもの本当は、うつらないはずなんです」とても冷たい息で。
弥子ちゃん、と俺は言う。走ってるせいか掠れた声しか出なかった。
「弥子ちゃん、助けるから、黙って」
首にまわされた弥子ちゃんの腕が夕暮れの暗いところに消えていく。
お願いだか
ら黙って、と言う俺に、弥子ちゃんは小さくごめんなさいと言った。
ごめんなさ
い笹塚さん、と何度も謝った。
「わたし本当はずっと向こうに行きたかったの」
陽が沈んで、あたりに夜がやってくる。弥子ちゃんはもう何も言わない。背中は
たしかに重いのに、弥子ちゃんの足にまわした手が時々宙をかいた。振り返ると
、弥子ちゃんの顔は男と同じ深い闇の中に沈んでしまっていた。
その場に弥子ちゃんの暗い体を横たえると、すぐに夜の闇にまざってわからなく
なった。俺はその場にただ立ち尽くす。虫の声と川の流れる音だけの静かな町。
深くなる夜に俺の体が紛れ、沈んでいく。
そのうち自分の体の境目がわからなくなり何も見えなくなり、だけどそれでも、
俺にはいつか朝がくるのだろう。のしかかる闇の中、俺を見つめるあの男の鉱石
のような瞳ばかりが思い出された。そしてどうせこうなるのなら、弥子ちゃんに死に水
をとらせてやるんだったと後悔した。
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