豹(藍グリ)




坂の途中に小鳥屋が一軒ある。
不機嫌そうな顔をした老人が店番をしていて、 往来の人を皺に埋もれた目でねめつけていた。もとは目白や金糸雀なんかが 可愛らしく鳴き交わしていたのにいつの間にかいなくなって、かわりに小屋 根の上の大きい檻に鷹が仕舞われていた。
その隣には豹の檻があって、鷹と 始終喧嘩をしていた。私は時々立ち止まってそれを眺めた。豹は檻の間から めいっぱい腕をのばして、隣にいる白い鷹を狙っていた。鷹は翼でそれを防 いでいて、よく見たら鷹でなくて鷲だった。
見物人の中に、「この豹は見覚 えがあるね」と言った者がある。今そんなことを言ってはいけないと私は思 った。豹がこちらを向いた。「檻の格子が一本抜けている。何か嵌めておか なくちゃあぶない」と言った者がある。私はひやりとして、豹に知られてし まった、と思った。「豹が鷲を狙うのは策略なんだね」と言う者がある。黙 っていないと大変なことになるのにと私は思った。そして豹が屋根から下り て私たちを喰いに来た。


私たちは逃げた。両側が森の、広くてきれいな道をみんなで走った。風が後 から追いかけるように吹いてきた。豹が風の中を駆け抜けるように走って私 たちに近づいた。最初に盲目の男が喰われた。道の真ん中を走っていたから 喰われたのだ。助けを求められたが知るかと思って構わず走り続けた。豹が あれを喰うのは当然だと思った。
それから白髪の若い男が喰われた。森のほうを走っていて、木の陰に紛れな がらうまく逃げていたが、豹がしつこく追うのでとうとうつかまってしまっ たらしい。男が大声で叫んでいると思ったら悲鳴ではなく笑っているのだっ た。腕をもがれ腹の中のものを喰い散らかされながら「すごいなァ、傑作 や」と言ってげらげら笑っているのは気持ちが悪かった。私はやっぱり立ち 止まりもしないで走りつづけた。


途中で横道にそれ、細い細い道を逃げたがどこも骨董屋ばかりで店には誰も いなかった。探しながら走っていると一軒、庭に水のいっぱい溜まっている 家があった。私はそこに逃げ込むと二階にあがり、窓から往来を見た。豹が 向こうから、地に腹のつくように背を低くして走ってきた。豹はとうとう私 を狙いにきたらしい。玄関にも畳や梯子段にも濡れた足跡がついているはず だと気づいて、もう駄目だと思った。豹はすぐにここに来るだろうと思った。
私は恐ろしくなって、身を隠すように体をまるめてその場に蹲った。豹が私 を狙うのが信じられない気がした。窓から見下ろした豹は碧色の美しい目を して、私のいるあたりを見上げて顔を変に歪めていた。笑ったのかもしれな い。ならばやはり、あれは豹の皮をかぶっているけれど、本当は豹ではない のかもしれない、と私は思った。豹のふりをして、獣のふりをして、だけど 本当は、人なのかもしれない。人と同じ心をもっているのかもしれない。そ う考えると、恐ろしくてたまらなかった。


私は立ち上がり、下におりて行った。一階は広い食堂になっていて、見知っ た顔の者たちが何人か席についていた。私は家中の雨戸を閉めてまわったが、 雨戸が磨り硝子なので心許なかった。すぐに見つかる、と思ったら案の定、 豹が硝子をがりがりひっかく音がし出した。「藍染様」と誰かが言って、 それが豹の声だとわかった瞬間息が詰まりそうになった。「藍染様」と豹が 私の名前を呼んでいる。歯が鳴るほどの恐怖。あれは喋れるのだ。なにを言 われるのか、そんなことは考えることすらもう耐えられない。
私は食卓につ いたかれらに助けを求めようと思って、「豹がきてる」と言った。みんな平 然と、落ち着いた顔をしていた。やはり私だけなのだと思うと、ふと心が一 瞬落ち着いたような気がしたが、何人かが嫌な笑いをしていたのでまた不安 になった。
「豹に喰われたくない」
ほとんど泣きそうになりながら言うと、一番近くの席にいたあの鷲が「あな たは知っているんでしょう」と答えた。そして薄く笑っている。鷲は鷲じゃ なくて、人なのかもしれないと私は思った。「洒落なんですよ」と眼鏡をか けた男が駄目押しのように言って、向いの男が「なんで」と聞いた。

「過去が洒落てるんだよ。この方だって承知してるさ」
「はぁん」

聞いた男はそう言って笑った。するとみんなが一緒になって、堪らないよう に笑い出した。私は「なにも知らない。気づいてない」と言おうとしたが、 そのうち何だかおかしくなってきた。そうして気づいてみたら豹がいつの間 にか入ってきていて、みんなの間に座って一緒になって笑っていた。
とても 屈託なく笑っていて、あんなふうに楽しそうに笑うのを知っていたなら、私 だって、と思った。そうして輪から外れたままの私に、あのこがぎこちなく 笑いかけた。