波止場(銀土高さち)
私は土方と二人で波止場に出た。大きな、向うの見えない、海の様な湖水を
渡るつもりだった。波止場にはすでに蒸気船が着いていて、舷と陸との間に
細長い板をかけてその上を人が渡っていった。土方が先に渡ろうとして、少
しぐらついた。危ないと思って手を貸そうとしたら、船の中から銀さんが出
てきて、土方の手を引いていった。私は安心したけど、いつの間に銀さんが
船に乗っていたのかはわからない。私も早く渡ろうと板に足をかけたけど、
足元の水の暗さと汚さについ躊躇ってしまった。湖にはゴミがたくさん浮い
ていて、油っこく、底なんか全然見えなかった。気付いたらもう駄目なのだ、
と思った。
船の丸窓から土方の顔が覗いて、何か言っていた。それが引っ込むと隣りか
ら銀さんが顔を出して、心配そうな顔をして私を見つめた。私は嬉しくなっ
て、一生懸命手を振ってこっちに戻ってきてとせがんだ。今度は土方が顔
を出して、怒ったような表情で何か言いたそうにしていた。それからまた銀
さんが顔を出した。そのうち、一つの窓から土方と銀さんがかわるがわる覗
いているのが、私は気になりはじめた。あんなことをさせていてはいけない、
早くどうにかしなければならない、と思う。
土方が私にまた何か言った。その不機嫌そうな顔は、本当は心配しているか
らだと知っている。土方の顔は親切にあふれて、そうして美しい。だから私
は土方を怒ることも出来ないし、じっとしていられないほど心配でもある。
そのうち船がすうと沖のほうに出て、渡してあった板が水に落ちた。土方は
ますます眉を寄せて、目を伏せた。早く乗ってしまうんだったと後悔したけ
どもう遅い。船は私を置いて出ていってしまった。どんどん小さくなる窓に
は土方と銀さんの顔が交互に覗く。私は心配でいてもたってもいられない。
私は大急ぎで走って、湖を迂回し先回りしようとした。海のように広い湖の
長い長い土手を、風をきりひたすら走り続けた。
船着き場に着くと船はもうそこに止まっていた。陸はしんとして、大きな汽
車が死んだように横たわっていた。船を下りたものはここで汽車に乗り換え
るのだ。
私が息を切らせながら汽車の窓をひとつひとつ覗いていくと、前の
ほうの席に銀さんたちが座っているのを見つけた。私は嬉しくなって急いで
汽車に乗りこもうとした。銀さんが私の好きな顔で笑ってるのだ。だけど扉
の前に土方が立ちふさがって、ふてぶてしい態度で「さっちゃん切符は持っ
てるの」と聞いてきた。私はそんなのどうでもいいでしょ、とかあとで買う
から、と言って入ろうとしたけど、そのうち扉が閉まって、汽車に乗れなく
なってしまった。呆然と立ち尽くし、どんどん遠ざかる汽車を眺めていたら
涙が出そうになった。だが耐えた。なにがなんでも追いかけてやろうと思っ
た。土方のさっきの偉そうな顔はやっぱり優しさにみちて、うまく怒れなか
ったけど、それでも私は銀さんの笑顔を選びたい。
だいぶ遅れて次の汽車がやってきた。席について窓にかじりつき、早く早く、
と念じつづけた。銀さんと土方が一緒の席に座っていたことが今になって心
配になってきた。私は自分でも、なんでだかよくわからないくらいに焦っていた。
早く、と思ううちまた泣きたくなって、私は窓枠につよく顔を押し付けて涙
を飲み込み続けなければならなかった。
私の向かいの座席に、お坊さんが座ったと思ったら高杉だった。
高杉は黒い
着物を着て、苦いような笑顔で私を見ている。なんなの、と私が言うと、高
杉は窓の向こうに目をやって、「外、」とつぶやいた。外を見ろと高杉は言
う。ちゃんと見てみろよと高杉は言う。だけど私は怖くて目を窓の外に向け
られない。さっきまで私は何を見ていたんだろう、と思い、それから高杉は
どうしてそんな酷いことを言うんだろうと思った。私は高杉をまっすぐに見
つめた。そうじゃないと、さっき走った湖の土手や波止場にまで戻りそうに
なる。網棚からなにか生温いものがつたって首筋に流れてきた。生臭いそれ
だって見てはいけないものだ。私は目の前の高杉を見つめることしか出来な
い。
高杉は私の視線を無視して窓の外を眺めていたが、ふと、顔をこっちに
向けると笑って、「もう眠っていてもいい」と言った。
そう言ったかと思うとまた窓の外に首をむけた。高杉のその笑みは初めて見
るくらい自然で、飲み込んだはずの涙が気づくと流れていた。高杉が傍に来
て、「もういい、もういい」と言ってくれた。
走る汽車の中から外をみると
あの、暗く汚い湖が薄暗いなかに澱んでいるのだった。そして私はその向こ
う岸に、土方と銀さんが二人、ぼんやりと立ち尽くしているのを見る。こち
らを見ているのに、どうしても目は合わないのが耐えられなかった。銀さん、
と思わず叫ぶと彼は私のいるあたりを見て、笑った。私は高杉の手を強く握
りしめて色々なものをこらえる。誰が奪って、誰を奪ったのか、もうわから
なかった。銀さんの笑顔と土方の美しい顔が目の前にちらついて離れない。
それでも私たちは同じところにはいけないのだ。
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