高い、大きな土手が、何処から何処へ行くのか解らない。
静かに、冷たく、夜の中を走っている。





冥途(笹塚と万屋)





土手の近くに居酒屋が一軒あった。俺は一人、薄暗くざわついた店の椅子に 座っていた。何も飲んでいなかったし、食べてもいなかった。何かを口に運 ぶことが億劫に感じるほど疲れている。それでも、うちへ帰るのはなんとな く気が進まなかった。


さして広くもない店内の、半分くらいに仕切りが置かれている。その向こう の広いテーブルに、七、八人の客が、何か食っていた。面白そうに話し合っ て、時々静かに笑った。その中の一人が「結局何も出来なかったんだね」と 言った。低く落ち着いた男の声で、自分はそれを聞き流していたが、そのう ちあれは俺のことを言ったらしい、と気がついた。
その男を見ようとしたけど、仕切りの透かし細工が細かいせいか、どれが言ったんだかぼんやりして いて解らない。その時別の声がまたこう言った。幼さを残したような、優しい、少女の声だ った。

「そんなことはない。そうだとしても、それは私のせい」

その声を聞いてから、俺はまたしばらくぼんやりしていた。そしたら急に唇 が震えだして、涙がでた。泣くという感覚を俺はもう長い間忘れていたから、 なんだかよくわからない。ただ今の自分が悲しい気がしている。多分悲しく て堪らないのだと思う。だけど俺は思い出せそうな気がしながら、その悲し みの源を忘れている。


隣の席に少年と少女が座って、酢漬けの人参葉と、自然生の汁 を飲んでいた。兄妹のような年の差で、少年は黒い髪をして、少女のほうは 桜色の髪と色素の薄い肌をしていた。二人は押し黙って、向かいの一団のほうを見 ている。向こうではなんだか色々と話し合って、時々静かに笑ったりしてい る。さっきの優しい声の少女が楽しげな手振りをまじえ、隣りの人に話し かけているのが見えた。隣りは同じくらいの年の少女らしい。それは見えて いるのに、何をしているのかはっきりとしない。話していることもよくわか らない。

土手の向こうで時々、水の流れがふと大きくなることがあった。せき止めら れていた水が溢れるような、腹に響く音だった。その時はみんな黙ってしま って、向かいの少女たちや隣の二人は、身を寄せ合うようにじっとしていた。 俺は一人ただ手を組み合わせていた。音が通りすぎると、また川の流れるか すかな音だけになる。そうすると向こうはまたぽつぽつと話し出す。なにを 言っているのかはわからないが、それでも俺はそのしっとりした、しめやか な団欒を羨ましく思う。


向こうとこちらを遮る仕切り板には睡蓮と蛙が彫られている。他はぼんやりし ているのに、それははっきりとよく見えた。隣の、桜色の髪の少女が椀を置いてそれを見 つめていた。仕切りの向こうに白髪の男がいて、同じようにそれを眺めている らしかった。そして意外にも若い声で、「雨の好きな奴だった」と言った。

「小さい雨蛙が、睡蓮の丸い葉の上に乗っていた。傘を放り出して、それを 両手にのせて馬鹿みたいにずっと眺めていた」

男がそう言ったとき、向こうにいる少女が白い手で、仕切りに彫られた蛙に手を かざすのが見えた。男が笑って、そう、そんなふうに、と言った。

「どんどんびしょ濡れになっていくから、俺はもう帰るぞと何度も言った」

隣の少女が、小さな声で人の名前を呟いた。
少年が少女の手を握り締めるの が目の端にうつった。

「強情な奴だったから。俺の言うことなんか全然聞きゃあしないんだ。だん だん腹がたって、俺はあいつの手から蛙を奪って、川に放り投げた」


土手の向こうのほうで、何かが跳ねるような音がした。隣の少女が声を殺して 泣いていた。少年も少女の手をとったままうつむいて、なにかに耐えているようだった。
仕切りの向こうで別の若い男が、「あいつは普段傘を手放せないから、両手 で触れられる生き物が嬉しかったんだろう」と言った。さっきの少女が「うまく 伝わらないね」と言って、それからまた別の、若くてなめっこい声 をした男が、雨ってどんなの、とふと言った。隣にいる連れに「兄さんは覚えてる の」と尋ねて、「あそこでは降らなかった」と言った。最初に俺になにか言った 低い声の男が、すまなかったねと謝っていた。


隣の少女が嗚咽の間に、耐えかねたように「銀ちゃん」と大きな声で呼んだ。
だけどその声は届か なかったらしい。みんな静かに立ち上がって、外へ出て行った。少女が飛び出 すように出て行って、少年もそれを慌てて追いかけていった。俺は立ち上がり、 勘定をすませて店をでた。
月も星もない暗い暗い闇の中、土手の上だけに、薄 く白い明りがぼんやり流れている。 その中を、さっきの一団がやっぱり静かに、 楽しそうに話し合っているのが見える。
白い着物の、背の高い男がいる。 髪の長くてきれい な男と、それにくっついて歩く男がいる。白髪の若い男がいて、隣で煙草に火を つける男がいて、そして一際背の低い少女がいると思ったら、それは俺の妹だ った。その脇を、大きくてしなやかな獣がすり抜けて歩いていく。白く美しい 鷲が翼を広げる その下、妹と一緒に話しているのがあの子だった。

「弥子ちゃん」

俺は呼んだけれど、きっと振り返らないだろうことはわかっていた。桜色の髪の 少女が土手の真下でかれらを見上げ、待って、と言いながら泣いていた。少年 は「結局僕たちはなにも関係することができなかった」と言って目を伏せ、俺 はそれを見てようやく、悲しみの源を思い出す。
俺は二人の隣で、土手の上の 人たちがばらばらに消えていくのを見送り、そうして土手を後にして、暗い道 を一人帰ってきた。俺はいつもこうだった。





end











内/田/百/閧フ『冥途』でした。お付き合い ありがとうございます!
異形お題:「水妖」

<20080905 拍手修正>


まあいつもなんですけどどれもこれも意味不明すぎるので卑怯で痛々しいのは 承知で説明しときます。
すみません…

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